.....司馬遼太郎氏は原作『坂の 上の雲』の映像化を終世断っていた.....”やはり書物にとどめておきたい”

今、「韓国併合」を問う~強制と暴力・植民地支配の原点~

ブックレット好評発売中
『今、「韓国併合」を問う~強制と暴力・植民地支配の原点~』
編集:「韓国併合」100年市民ネットワーク (発行:アジェンダ・プロジェクト)  A5版 70頁 500円(税込)
目次:
刊行にあたって/勝村誠                   
②韓国併合条約強制の実相/李泰鎭
③1905年の保護条約の違法性―その隠蔽の沼―/李泰鎭 
④「韓国併合」-日本とアメリカ-100年前と今と-/中塚明                
⑤1905年「韓国保護条約(?)」は捏造だったのか/戸塚悦朗
⑥あとがき/戸塚悦朗
  
全国主要書店、インターネット通販で販売中。書店での取り寄せもできます。
 
 ☆直接申し込みはアジェンダ・プロジェクト(agenda@tc4.so-net.ne.jp)まで。
送料・振り込み手数料が必要になります。10冊以上ご購入の場合は1冊400円に割引します。


著者紹介

坂の上の雲」のどこが問題なのか? ~史実の偽造を拡散させる

NHKの社会的責任

[講演会のお知らせ]
「坂の上の雲」のどこが問題なのか? ~史実の偽造を拡散させるNHKの社会的責任~

D1日時:2010年5月30日(日)PM1:30~3:30
場所:志津コミュニティセンター 2F 大会議室 (ユーカリが丘駅北口、モノレール公園駅下車 2 分)
講演者:醍醐 聰
資料代:300円

Ⅰ.史実を改ざん・黙殺した原作の誤りを公共の電波で拡散させるNHKの責任
(1)日清・日露戦争は日本にとって「受け身の」「祖国防衛戦争」だったのか?
(2)伊藤博文は開戦回避・朝鮮の独立に尽力した平和主義者だったのか?
(3)日本は国際法を守って日清・日露戦争をフェアに戦ったのか?
(4)正岡子規は日清・日露戦争の時代に明るい青春を謳歌したのか?「なき人の むくろを隠せ 春の花」(子規の従軍日記より)

Ⅱ.司馬遼太郎の遺志に背いて原作のドラマ化を推進したNHKの責任 (1)司馬遼太郎は原作のドラマ化を拒んでいた。
(2)後年、司馬の朝鮮観は大きく揺らいでいた。

     講演会のお知らせPDF
講演者紹介

D2

醍醐 聰
「坂の上の雲」放送を考える全国ネットワーク呼びかけ人
NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ共同代表
元東京大学大学院経済学研究科教授
(2010 年 3 月退職)
佐倉市宮ノ台在住

主催:『さくら・志津憲法9条をまもりたい会』 連絡先:(Tel&Fax)043-487-1350(中河)043-488-0537(前田)

*とくに連絡は不要です。ご自由に、ご参加ください。

(参考) 日本 NHK‘韓日強制併合’掘り下げたが…

伊藤=平和主義者,安重根=理想主義者’   右派 顔色伺い…歴史認識 転換できず

日本の植民地支配の受動性を印象づけ、主権蹂躙の実態をはぐらかした

NHKスペシャル~「韓国併合への道」を視て(1)(2) 醍醐聰のブログ

安重根 4月18日、NHKスペシャルでシリーズ「日本と朝鮮半島」の第1回として「韓国併合への道」が放送された。
伊藤博文と彼を射殺したアン・ジュングン(安重根)の軌跡を辿りながら、1910年の韓国併合に至る歴史をロシア、アメリカ、英国など当時の国際列強の動きと絡めながら明らかにするというのが番組制作者のねらいだった。しかし、番組を視終えた私の感想は、日本による朝鮮の植民地支配の受動性を印象づけ、核心的な史実である主権蹂躙の実態がはぐらかされたということだった。
 私がいう受動性の印象づけは次の2面からなされた。一つは朝鮮のそれなりの「自治」を認めようとした伊藤博文の融和的統治方針を朝鮮民衆が聞き入れず、過激なナショナリズムに走ったため、伊藤や日本政府は「併合」という手段を選ぶほかなかったというストーリーの仕立て方がされたという点である。
 受動性を印象づけたもう一つの手法は、朝鮮を属邦にしようとする清の野望とロシアのアジア進出の脅威を随所で際立たせることによって、日本が朝鮮の占領支配とその継続を余儀なくされたかのようなストーリーの仕立て方である。以下、これら2つのストーリーの真偽を検討していきたい。

1.日清戦争は日本が朝鮮の独立保持のために起こした戦争だったのか? 
 番組は冒頭で、1894年7月、日本は朝鮮王宮を武力で制圧した後、清に宣戦布告をしたというナレーションをさらりと流した。そして、こうした日本の行動は、日本が東洋の平和をめざしていたにもかかわらず、清は朝鮮を属邦にしようとする野望を持っていた、朝鮮を自主の国とするためにはこうした野望を持つ清の影響を断ち切る必要があったからだと解説した。さらに、番組は三国干渉で半島の返還を要求したロシアや中国進出を伺う西洋列強の動きも伝え、「日本と朝鮮王朝は否応なくこうした動きと向き合わなければならなかった」と解説した。これでは日本が朝鮮の後見人として列強の進出から同国の独立を守るために戦ったかのような歴史像を視聴者に植え付けることになる。
 番組がこのような印象づけをしたトリックの種は日本軍による王宮占領事件がなぜ起こったのか、それと清に対する開戦はどのようにつながったのかに一切触れず、ブラックボックスにした点にある。この日本兵による朝鮮王宮占領事件については、福島県立図書館所蔵の「佐藤文庫」に含まれている旧日本陸軍参謀本部筆の『日清戦史』草稿を解析した中塚明氏による詳細な研究成果が公表されている(中塚明『歴史の偽造をただす~戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」~』(1997年、高文研)。この草稿の中に1894(明治27)年7月20日付けで本野一郎参事官が第5師団混成旅団大島義昌少将に提出した次のような申し入れ文書が収録されている。

景福宮  「ちかごろ朝鮮政府はとみに強硬に傾き、我が撤兵を要求し来たれり。因って我が一切の要求を拒否したるものとみなし断然の措置に出でんがため、本日該政府に向かって清兵を撤回せしむべしとの要求を提出し、その回答を22日と限れり。もし期限に至り確乎たる回答を得ざれば、まず歩兵一個大隊を京城に入れて、これを威嚇し、なお我が意を満足せしむるに足らざれば、旅団を進めて王宮を囲まれたし。然る上は大院君〔李是応〕を推して入闕せしめ彼を政府の首領となし、よってもって牙山清兵の撃攘を我に嘱託せしむるを得べし、因って旅団の出発はしばらく猶予ありたし。」
                              クリックで拡大↑
 現実はこの申し入れ通りに進行したのであるが、要するに日本は朝鮮政府に対し、期限を切って清の撤兵を要求させる、それが聞き入れられない時は京城に歩兵一個大隊を進軍させて威嚇し、なおも朝鮮政府から満足のいく回答を得られない場合は旅団に王宮を占領させ、高宗皇帝を斥けて国王の実父である大院君を王位に就かせて、清軍を朝鮮から掃討することを日本軍に委嘱させるという作戦なのである。この提案を受けた大島旅団長は、「開戦の名義の作為もまた軽んずべからず」と言って同意した。
 この作戦にそって、1894(明治27)年7月23日、午前零時30分、大鳥公使から「計画通り実行せよ」の電報が届くや景福王宮に向けた混成旅団の威嚇行進が始まり、迎秋門を破壊した兵隊が次々と王宮の奥へと進み、雍和門内威和堂に在室した国王を発見、山口大隊長は彼の目の前で剣を振りかざして威嚇したのである。他方、この日午前11時に、日本軍は大院君をその邸宅から連れ出して王宮に入城させた。
 こうして、いわばクーデターにより高宗皇帝を退かせ、筋書き通りに傀儡の大院君を即位させた日本は新内閣に、牙山に駐留した清国軍を駆逐する任を日本に委託する文書を7月25日付けで出させ、清軍艦隊に対する攻撃を開始したのである。(以上、中塚明『歴史の偽造をただす~戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」~』1997年、高文研、37~68ページ参照)

安重根 以上のような事実経過に照らすと、日本は清の進出から朝鮮の独立を守るために清との開戦を余儀なくされたのではなく、―――朝鮮を属領としようとした清の動向は事実としてもーーそれとは逆に、朝鮮における自らの権益の確保・拡充のために武力を背景に王宮を占領し、国王を拉致・威嚇して政権を転覆させ、自らが発足させた傀儡政権からの「要請」に応じるという形で清との戦争に突入したことがわかる。この意味で、日清戦争は日本が清の進攻から朝鮮の独立と東洋の平和のために「余儀なくされた受け身の戦争」であったかのように描いたNHKスペシャルは史実を著しく捻じ曲げて伝え、歴史のねつ造を拡散させたといっても過言ではない。

2.治政者の主観に寄り添い、歴史の本質をはぐらかした伊藤博文評価
 日本の歴史学界には、朝鮮・中国の直轄植民地化、武断政治を唱えた山県有朋、寺内正毅、長谷川好道らと対比する形で伊藤博文を国際協調派・朝鮮の部分的自治を容認しようとした融和派と捉える見解がある。今回のNHKスペシャルはこうした見解を取り入れる形で、伊藤は当初は韓国「併合」とは別に朝鮮に「責任内閣」制を導入し、同国にも一定の行政権・立法権を認める「自治植民地」構想も考えていたという点に焦点を当てた。しかし、韓国民衆はこうした伊藤の構想を信用せず、民族自立のナショナリズムを先鋭化させ、経済面でも日本からの自立を図ろうと国債報償運動(タバコや酒を断ち、指輪やかんざしなどを拠出して、日本からの借款を国民の募金で返済しようとする運動)まで興した。伊藤はこれに不快感を抱き、高宗皇帝が第2次日韓協約の無効を訴える密使をハーグに送ったことが発覚したこともあって、「自治植民地」構想をあきらめ、「韓国併合」の道を選んだというのが番組の大まかなストーリーだった。

こうした筋書きだと、伊藤博文は韓国に一定の自治を認める融和的植民地統治を進めようとしたにもかかわらず、韓国民衆の過激なナショナリズムに直面して行き詰まり、やむなく「併合」の道を選んだかのような印象づけになる。しかし、史実はどうだったのか? 
 伊藤博文は日清戦争の開戦当時、出兵のタイミング、大義名分、規模をめぐって即時派兵を唱えた外務大臣・陸奥宗光や参謀次長・川上操六らと一線を画していたことは確かである。第2次日韓協約締結(1905年)後の韓国統治のあり方をめぐっても、軍事的威圧を行う必要上、武官統監論を唱えた韓国駐箚軍司令官・長谷川好道大将や山県有朋らの主張に対してシビリアンコントロールを説いたのは伊藤だった。
歴史の偽造を糺す しかし、日本が日清戦争開戦の口実を作るために起こした王宮占領の狡猾な計画を知らされた伊藤はそれを「最妙だ」とみなして同調する手紙を陸奥外相に送っている(中塚明『歴史の偽造をただす~戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』1997年、高文研、42ページ)。
 日露戦争また、日露戦争開戦時に伊藤は積極的に非戦を説いたわけではない。伊藤は、韓国への2個師団の出兵を主張する枢密顧問官・山県有朋と時期尚早論を説いた山本権兵衛、大山巌らの間に入って人員数を混成一旅団くらいに減らして派生する折衷案を持ち出したに過ぎない。韓国を「保護」する名目で日本軍を派生するという山県の考えを伊藤も諒としていた(以上、平塚柾緒『図説 日露戦争』1999年、河出書房新社、22~24ページ)。

3.第2次日韓協約の承認を強要した伊藤博文
 伊藤の強権的朝鮮支配の姿が露見したのは1905年に彼が日本側特派大使として韓国に出向き、第二次日韓協約書の調印をめぐる交渉の場面だった。この年の10月17日、王宮に韓国大臣を呼び集めて開かれた御前会議は調印に向けた日韓最後の交渉の場となったが、王宮内には日本憲兵や領事館警察官、韓国政府に傭聘された日本人巡査が配置され、戒厳体制を敷かれた。

その御前会議において、伊藤は調印にあくまで抵抗する韓圭萵参政を別室に連れ出させ、自ら各大臣に協約案に対する賛否を質し、賛否を明言しなかった大臣を含め5名の賛成があったとして多数決で可決されたものとみなし、協約の成立を宣言した。この報が伝わるや韓国内では抗議の声で騒然となり、高宗皇帝は、①強制された調印は無効、②皇帝の承認の欠如を理由に挙げてハーグに密使を送り、条約の無効を訴えた。また、協約案に賛成した5人の大臣は以来、韓国民衆の間で民族の主権を日本に売り渡した「乙巳五賊」と罵倒された。こうした中、皇帝の侍従武官長・閔泳煥(日本兵に虐殺された王妃閔妃の甥)は抗議の自決をした。
 NHKスペシャルはこの第二次日韓協約の調印に至る伊藤の強権的手法をかなり詳細に伝えていた。私がこの番組の中で評価できると思ったのはこの場面だが、一国の外交権をその国の意思に背いて日本側に「委任」させた協約が相手国の主権を根こそぎ奪うものであったという認識は番組から伝わってこなかった。

4.伊藤博文の「自治植民地」構想の実相
 次に、初代統監に就任した伊藤の朝鮮内政改革はどう評価されるのか?伊藤は在任中、ほぼ毎週のように韓国大臣と施政改善協議会を開いたが、この「協議会は伊藤が指導する閣議であり、行財政・司法・諸産業育成・教育など内政万般にわたる問題が伊藤提案をもとに審議決定された。第2次日韓協約に賛成し、そのまま大臣に留めおかれ、増俸と身辺警護で傀儡化した彼らの統監に向き合う気持ちは、近代への憧憬(あこがれ)韓国併合と嫌悪と恐怖が混ざり合っていた。伊藤に対し反対する自由はない」(海野福寿『伊藤博文と韓国併合』2004年、青木書店、78ページ)のは当然だった。しかし、皇帝は第2次日韓協約で委任したのは外交権だけで内政にまで介入するのは不当であるという不満を募らせた。そこで、伊藤は韓国に対して助言をなすことを定めたにすぎない第2次日韓協約では事足りないとみなし、韓国に対して助言ではなく、直接指導・命令ができる根拠法規として第3次日韓協約へと進んだのである(以上、(伊藤、同上書、78~83ページ)。
 このようにみてくると、伊藤が構想した「自治植民地」論は韓国の主権の根幹を侵害する点において直接統治論と同根であり、彼がいう一定の「自治」は自分の統治に従順に応える韓国政府や民衆に対する上からの施し、あるいは植民地統治をより狡猾に行うための外装に過ぎなかったのである。

 番組に登場した某大学教員は伊藤の「自治植民地」構想が行き詰った理由を、韓国のナショナリズムが予想以上に強かったためと解説していた。伊藤の主観と客観のギャップを評論する言葉としては大過ないであろう。しかし、歴史学者としての役割からすれば、番組のストーリーに忠実に伊藤の主観をなぞるのではなく、内政・外交全般にわたって主権を根こそぎ奪われた国の民衆の側の意識にも視線を向け、日本における朝鮮の植民地統治の歴史的意味、その負の遺産を客観的に評価する発言が求められたはずである。

NHKスペシャル 日本と朝鮮半島 第一回 「韓国併合への道」

(2010.4.18)を見て とりあえずの感想 中塚明(奈良女子大学名誉教授)

 韓国統監に着任した伊藤博文は、韓国をいわゆる「併合」ではない、朝鮮人による「自治」(朝鮮人による「責任内閣」制など)構想を持っていて、もっぱら日本の近代化を手本に韓国を近代化しようとしていた。しかし、朝鮮人がその伊藤構想に従わなかったので最後は「併合」に同意せざるを得なかった――というのが、この番組での伊藤博文の描き方でした。これは京都大学法学部の伊藤之雄氏らの主張にそったものであることは言うまでもありません。
ちらっと映像に登場した『末松謙澄文書』や『倉富勇三郎文書』などについては、断片的な言葉の引用が行われましたが、これはその文書全体の分析が当然必要です。テレビの番組ではその全面的な分析は無理だと思いますので、この小文でも取り上げません。

 ここでは、二点の疑問を呈します。
(Ⅰ)1905年11月17日の第二次日韓協約(いわゆる「保護条約」)を武力で強迫、強要して、韓国の「外交権」は奪われ、列国外交団は韓国から引き上げてしまい、韓国は自主的な外交権を奪われ独立国としての形式も内実も失いました。これは伊藤博文みずから韓国に乗り込んで自明の政策として実践、強要した結果でした。
 この状態で、「韓国の近代化をはかるから、韓国人は伊藤博文統監の言う通りについて来なさい」というのが、「併合ではない伊藤構想」だというのですが、そんなことがどうして言えるのでしょうか。なぜ、韓国人は「外交権を奪った日本に従順に従わなければならないのか」――そんな疑問を、この番組制作者は、まったく問いませんでしたね。
 朝鮮(韓国)は古い歴史と伝統をもった国、民族です。その民族を相手に散々、無法を繰り返した後に、こんな虫のいいことを言われても、韓国人がついてこないのは当たり前ではないでしょうか。
(Ⅱ)私はいま、「散々、無法を繰り返した後に」と言いましたが、この番組では、日清戦争は「朝鮮を属国扱いにしている清国から朝鮮を独立させる戦争だった」ということで片づけられています。日清戦争中に、「朝鮮の独立」といいながら、朝鮮の主権をどれだけ侵害したか、朝鮮人をどれだけ殺したのか、はては国王の后を惨殺するという世界史上空前絶後の事件を引き起こしたのか、その意味、そしてその事件には伊藤博文が肝心、要のところで全部かかわっていたことを、まったく描きませんでした。
 以下、肝心、要のところで伊藤博文が関わっていたことを史料をあげて紹介しておきます。
 (1)日清戦争における日本軍の第一撃が朝鮮の王宮に向かっておこなわれたことは、もう否定できないので、画面には一応出ました。しかし、なぜ「王宮占領をしたのか」、その意味はまったくふれないままでした。朝鮮の国王を擒(とりこ)にして、「属邦保護」として朝鮮に上陸している清国軍を国外に駆逐してほしいという公式文書を、国王から出させて、「戦争の大義名分を入手する」のが、この王宮占領の大きな目的でした。
清国が朝鮮を属邦としていることを取り上げて開戦の口実にしようとした陸奥宗光外相の案に、「そんな清韓宗属関係は昔からのことで、そんなことを開戦の口実にしても欧米諸国の賛成は得られない。もっと適当な口実をつくれ」といっていた伊藤博文でした。
そこで陸奥外相が大鳥公使に使者を送り、大鳥が考え出したのが、朝鮮国王を責めたてて、その返答を開戦の口実にしようとしたのです。伊藤博文はこの大鳥の案に「最妙(面白い案だ)、……大鳥強手段一着手ト被察候、此両三日之挙動ニ依リ、或ハ将来ヲ卜(ぼく)スルニ足ル乎(か)ト奉存候。精密御注意可被下候。……」と陸奥外相に手紙を送っています(明治27年6月29日、高橋秀直『日清戦争への道』東京創元社、1995年、384~385ページ)。
「速やかな開戦にいたる道を見いだせず焦慮していた伊藤にとり,このとき実行しようとしている朝鮮への圧迫は、その展望を切り開くものであったのである」(高橋、同書)。
まだこのあと列強の干渉などがありこれをかわしつつ、朝鮮の王宮占領が実行され、日清戦争の扉を日本軍がこじ開けたのが1894年7月23日だったのです。すなわち、伊藤博文は戦争には消極的、できるだけ清国とは戦争したくなかった、というのは全くの作り話です。

 (2)しかし、こんな無茶をやりながら、日本政府は王宮占領の事実を伏せたまま開戦に持ち込み、まんまと成功したかに見えました。しかし朝鮮人は怒りますね。当然のことです。秋には東学農民軍を主力とする朝鮮人民の抗日を旗印にした大規模な蜂起が始まります。日本政府・日本軍は困りました。「朝鮮の独立」のために戦うといっている日本軍に向って、「朝鮮の主権を侵害するもの」として公然たる大衆蜂起が始まったのですから。しかしこれは、昨日のNHKTVでは、まったく描かれず無視されました。
 これに対して日本政府・日本軍はどうしたか。井上勝生さん(北海道大学名誉教授)の詳細な研究があります。「東学農民軍包囲殲滅作戦と日本政府・大本営╶╴日清戦争から「韓国併合」100年を問う╶╴」(『思想』岩波書店、2010年1月号。この号はよく売れて雑誌としてはまれなことですが増刷され、まだ大きな書店には売っていますので、ぜひ買って読んで下さい)。新たに一個大隊の日本軍を朝鮮に送り、日本軍を三隊に分けソウルから西南方にむかわせ、朝鮮の抗日闘争を西南の珍島まで追いつめて殲滅する作戦を展開したのです。
 この作戦について、井上さんの論文の結論をあげておきます。
 東学農民軍に対する三路包囲殲滅作戦は、朝鮮現地の外交部や軍部が立案したものではなかった。広島大本営で伊藤博文総理、有栖川宮参謀総長、川上操六参謀次長兼兵姑総監以下の政軍の最高指導者たちが共同して、東京の陸奥宗光外相も参画の上、立案・決定され、朝鮮現地へ命令された作戦であった。「討滅大隊」後備歩兵第一九大隊は、非道で不法な「ことごとく殺戮」作戦を、朝鮮南部ほとんどの地域で実行するように命令された。(前掲『思想』41ページ)。
 伊藤は文官ですが、大本営に出席することを認められていて、日清戦争の軍事指導にもしっかりと参画していたのです。

 (3)最後に、いわゆる「閔妃殺害」と伊藤博文との関係です。伊藤之雄氏は「当時の外交文脈から、伊藤首相が関係していないことはすでに論証されている」(京都大学法学会『法学論叢』第164巻 第1~6号合冊、2009年3月、2~3ページ)と言っています。そして自著『立憲国家の確立と伊藤博文』(吉川弘文館、1999年)をあげています。しかし、残念ながらその「論証」はきわめて杜撰なもので、とても「伊藤首相が関係していないことはすでに論証されている」とは言えません。
 いわゆる「閔妃殺害」については、昨年、金文子さんによって詳細な研究『朝鮮王妃殺害と日本人』(高文研、2009年)が出版され、この事件についての研究水準が画期的に高められました。
 この事件では、井上馨に代わって朝鮮駐在公使になった三浦梧楼(元陸軍中将)が、日清戦争が終わった後もまだ朝鮮にいる日本軍を必要なときに動かす権限を手にいれておきたいという要求を赴任早々から持っていました。ソウルに着任して20日もたたない「明治28年9月19日付け、三浦公使から川上参謀次長あて電報」に「……本官(三浦公使)の通知に応じ、何時にても出兵するよう、兼て兵站司令官に御訓令相成、而して其趣外務大臣に御通牒相成りたし」(大韓民国国史編纂委員会『駐韓日本公使館記録』第7巻、1992年)とあります。公使というのは外務大臣の指揮下にある外務省の官吏のはずです。それが、外務大臣にではなく参謀次長にこういう重大電報を打ち、こんな電報が来たことを外務大臣に知らせておいてくれ、といわんばかりの電報です。西園寺公望外相代理(陸奥外相は病気で一時休養中)の激怒をかいましたが、当然のことでした。
 電報を受け取った陸軍参謀本部の川上操六次長は、この三浦の要求を伊藤内閣総理大臣に伝えます。「別紙之通、三浦公使より電報有之候に付、参命第三二三号之通、南部兵站監へ訓令可相成筈に候得共、一応御意見相伺度候也」(参謀本部としては三浦の要求にそえるように参謀本部の命令第三二三号として韓国にいる南部兵站監へ訓令する積もりですが一応意見をうかがいます――という内容)。参命第三二三号とは「今後若し朝鮮内地に賊徒再燃する場合に於て、之が鎮圧の為め、貴官の指揮下にある守備兵を派遣する件に関し、特命全権公使三浦梧楼より協議あらば、貴官は固有の任務を尽くすに妨げなき限り成るべく同公使の協議に応ずべし 大本営」というものです。
 意見をうかがうというより、一応伝え置くと言う感じの川上の伊藤あての文書ですね。 さて、伊藤首相はどうしたか。10月2日、伊藤首相は大山巌陸軍大臣にあてて「三浦公使より通知次第、何時にても出兵する様、大本営より予め在朝鮮兵站司令官に訓令相成度旨、大本営へ照会の儀、可然(しかるべく)御取計相成候也」と書きました。つまり、三浦公使から出兵の要請があった時は、いつでも応じられるようにして取りはからってほしい、と伊藤首相は陸軍大臣に申し伝えたのです。
 西園寺外相は激怒したのですが、伊藤首相によって、9月19日付の三浦公使から川上参謀次長あてに送られた「……本官(三浦公使)の通知に応じ、何時にても出兵するよう、兼て兵站司令官に御訓令相成……」ということは追認されて大山陸軍大臣に通知され、大本営と然るべくと計らうようにと、伝えたのです。
 伊藤博文首相が「閔妃殺害」と「関係していないことはすでに論証されている」という伊藤之雄氏の論証は、改めて検証されるに値する不十分な論証だと私は思いますが、いかがでしょうか。

 NHKも遠くアメリカやロシアにまで取材をして、たくさんのお金をこの番組につぎこんだことでしょうが、日本の国内の新しい研究の紹介にももっと精力をさいて、視聴者に上滑りしない情報をしっかり届けてほしいものです。
 以上、昨夜の「NHKスペシャル 日本と朝鮮半島 第一回 「韓国併合への道」を見て、とりあえずの感想です。ご参考までに。      (2010.4.19 中塚 明)
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参考 世に倦む日日 Arisanのノート

しまなみ海道から『坂の上の雲』へ / 真之、黄海海戦を丁寧に説明

愛媛の弓山正路です。しまなみ海道から『坂の上の雲』へ~まちづくりについて考えよう~と題してパネルディスカッションが行われました。記事の中では『坂の上の雲』という言葉はあまり書かれていませんが実際の発言は『坂の上の雲』という言葉のオンパレードでした。会の冒頭には、全員起立で国歌斉唱がありました。壇上には『日の丸』が掲げられ、敬礼してマイクに向かいました。
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【愛媛新聞 2010年4月16日 金曜日 3面】
まちづくり 市民主役 今治・松山市長フォーラム 観光面協力に意欲

 今治市の菅良二市長や松山市の中村時広市長らがまちづくりをテーマに意見を交わすフォーラムが15日、今治市別宮町1丁目の市公会堂であり、市民約600人が両市のまちづくりの課題や展望などについて考えた。
 まちづくりへの市民参加を促そうと、今治青年会議所が開催。両市長と渡辺俊・同会議所理事長(38)がパネリストを務めた。

 市民参加型のまちづくりについて中村市長は「主役は行政ではなく市民だ」とし、自治会への権限移譲を進めていると説明。菅市長は本年度から市の11支所に予算300万円をそれぞれ配分したことに触れ「地域の活力につなげたい」と述べた。
 菅市長は瀬戸内しまなみ海道を「世界に誇れる地域」と強調。情報発信策を市の課題とし、自転車や徒歩で渡れる海道の魅力に磨きをかけることを観光戦略の要点に挙げた。
 菅市長は、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の効果で、明治時代に瀬戸内海防備の拠点として小島に設けられた芸予要塞(ようさい)跡に多くの観光客が訪れているとし、「観光面での松山市との連携は不可欠」と広域連携の重要性をアピール。中村市長は「大いにやりたい」と応じ、観光商品の開発段階からの協力態勢に意欲を見せた。
 次期県知事の人物像について中村市長は「さらに改革を進められる人」とコメント。菅市長は中村市長が最適との見解を示した。(多和史人)
【写真】まちづくりについて意見を交わす菅今治市長(左)と中村松山市長(左から2人目)=15日午後8時ごろ、今治市別宮町1丁目

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愛媛の弓山正路です。今日2回目の『坂の上の雲』関係の新聞記事です。反戦思想家に転じた水野広徳については、研究が深められ、その思想が広まることを願っています。
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【愛媛新聞 2010年4月16日 金曜日 7面】
真之、黄海海戦を丁寧に説明真之、黄海海戦を丁寧に説明

松山 後輩・水野広徳あて書簡発見
 松山出身の海軍軍人・秋山真之(1868~1918年)が同郷の後輩で戦記文学者の水野広徳(1875~1945年)に送った書簡が、同市の男性(81)方に所蔵されていることが、15日分かった。実物を見た坂の上の雲ミュージアム(同市一番町3丁目)の松原正毅館長は「日露戦争黄海海戦についての質問に真之が丁寧に答えており、二人の親密な関係がうかがえる」と話している。

 黄海海戦は日本海海戦前年の1904(明治37)年8月10日、旅順を出、ウラジオストクの艦隊と合流しようとするロシア太平洋艦隊と日本連合艦隊主力が衝突。日本側がロシア艦隊数隻を撃破した。真之は書簡冒頭に「八月十日合戦図改正愚見」と記し、戦艦の位置や進路について細かく説明している。
 封筒が残っていないため執筆年は不明だが、日付は6月12日。

 松原館長によると、水野が1914(大正3)年に匿名で刊行した「戦影」執筆に際し照会、同海戦で連合艦隊司令部参謀を務めた真之が回答した可能性があるという。「戦影」には黄海海戦略図が掲載されている。
 所蔵している男性は昭和40年代に市内の骨董(こっとう)商から軸装で購入、自宅で保管しているという。(渡辺純子)
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 水野広徳=和気郡三津浜村(現松山市)生まれ。海軍大尉として従軍した日露戦争の日本海海戦を描いたルポルタージュ「此一戦」(1911年刊)で知られる。欧州で第1次大戦の戦禍を目の当たりにし1921年に退役、反戦思想家に転じた。
【写真】松山市の男性方に所蔵されている秋山真之の水野広徳あて書簡

ニューズレター第18号を発行(NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ)

ニューズレター第18号を発行しました。

181

ニューズレター第18号を発行しました。

 PDFダウンロード  http://kakaue.web.fc2.com/NL/No18.pdf

1頁  :「開かれたNHKをめざす全国連絡会」申し入れ
2頁  :「新通信・放送融合法案のねらいは何か」
3頁  :~全戦線にわたって崩壊―テレビ制作現場~
4-5頁:地デジ化をめぐる外国の経験と日本の状況
6頁  :掲示板・ご意見板 から
7-8頁:「坂の上の雲 (NHKスペシャルドラマ歴史ハンドブック)」
での記述について
9頁   :毎日新聞の「質問なるほドリ」について
10頁:NHKドラマ「坂の上の雲」第1部 を見ての感想       
       :NHKドラマ「坂の上の雲」放映を見て
11-12頁:安川寿之輔さんの福沢諭吉批判を聴いて考えたこと
13頁 : 歴史問題の前向き解決とNHKドラマ『坂の上の雲』
14頁 : 朝鮮王妃暗殺 背景学ぶ 松山

 
NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ更新しました。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/
『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク更新しました。
http://kakaue.web.fc2.com/
 

明治の開拓精神驚嘆「ドクとイカロス-」近藤さん松山市長と時代語り合

今日(4/14)NHK総合で歴史ヒストリア「吉田松陰」
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愛媛の弓山正路です。また、「坂の上の雲」関連の記事です。
秋山兄弟は軍人として当時の日本の侵略戦争を先頭に立って遂行した人間です。その人たちが「生き方の刺激」になるとは?!
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 明治の開拓精神驚嘆「ドクとイカロス-」近藤さん松山市長と時代語り合う
2010年4月13日 愛媛新聞 9面
 松山市出身で京都府立医大名誉教授の近藤元治さん(73)=京都市左京区=が12日、松山市の中村時広市長を訪問。昨年11月に出版した「ドクとイカロスの翼」の主人公が生きた時代や、「坂の上の雲のまちづくり」に通じる明治の松山などについて歓談した。

 「ドクと-」は、松山出身で1903(明治36)年に米国に渡り、日本の民間人として2番目に飛行士になった近藤元久らの生き方を小説風にまとめた作品。市長に「当時の人々のバイタリティーや開拓精神には驚かされる」と話した。著作活動を振り返り「松山などを中心に人とのつながりが広がり、うれしい」とも報告した。

 市長は「坂の上の雲」の秋山兄弟や、同時期にアラスカで成功を収めた松山育ちの和田重次郎など、海外に渡った県人に触れ「過去に外に出て勝負をし、パワーある人がいたことを知るだけでも、私たちにとっては生き方の刺激になる」などと答えた。(清家香奈恵)【写真】近著や明治の松山などをテーマに中村市長(右)と歓談する近藤さん
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 今日(4月14日・水)22:00~NHK総合で歴史ヒストリア「吉田松陰」が放送されます。明治政府の朝鮮侵略の思想を弟子に受け継がせた人物がどう描かれるか、要チェックだと思い、お知らせします。添付ファイルがつけれる方には、ブックレット検証「坂の上の雲」p7を添付します。松陰の露骨な対朝鮮侵略思想が現れている文章です。
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第2章   近代日本が朝鮮を植民地にするまでの歴史過程 
次章では、作品『坂の上の雲』の記述内容に対して、具体的に検証・批判していきますが、その多くが、日本と朝鮮の関係に関わることがらなので、その前に、近代日本の出発時から韓国併合までの日朝関係史の大枠を、ごく簡単にたどっておきたいと思います。
(1) 日本の開国から、朝鮮への不平等条約強要まで 
    欧米列強には従属的協調を、アジアヘは侵略を
 江戸・幕末の1853年、ペリー率いるアメリカの艦隊が日本にやって来て開国を迫る。それに対し幕府は、日米和親条約(1854)、日米修好通商条約(1858)を締結し、不平等条約体制下での、欧米への開国に踏み出した。このような状況のなか、明治維新・明治新国家の多くの指導者的立場の人物を育てた長州藩の吉田松陰は、日本の針路について、以下のような主張をしている。
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魯墨講話一定、我より是を破り信を夷秋に失うべからず。ただ章程を厳にし信義を厚うし、其間を以って国力を養い、取り安き朝鮮、満州、支那を切り随え、交易にて魯墨に失う所は、また土地にて鮮満に償うべし (1855.獄中から弟子たちに書いた手紙)
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 つまり、欧米列強との条約はきちんと守って、信用を失わないようにし、その間に国力をつけて朝鮮や中国をとり、欧米との交易で損をするところは、そこで補ったらよい、と言うのだ。
 その後の明治新政府一近代日本国家は、その出発時から、このような針路一欧米列強とは従属的協調関係を維持しながら、少しずつアジアヘの侵略を進めていく-を進むことで一枚岩となっていたわけではないが、基本的にこのような軌道で走り始め、やがて、国内での、それへの障害を排除しつつ、そのような針路・方向性を確かなものとしていったのである。
      アメリカついで日本、朝鮮の江華島を襲撃
 まず1871年、アメリカ艦隊が朝鮮の江華島を侵略・攻撃したとき、日本の明治新政府は、交友長き隣国朝鮮ではなく、日本に不平等条約を強要した当の国アメリカに協力し、長崎港を、その出撃拠点として使わせる。
 そして、朝鮮側の反撃でアメリカが追い返された、その4年後の1875年、日本は、アメリカがそのとき作成した測量地図を手に、江華島・永宗島を攻撃・侵略し、翌年、朝鮮に不平等条約(日朝修好条規)を強要し、開国を強いたのである。それは、日本が欧米列強に強いられた不平等条約を、さらに不平等にしたものであった。

[CML 003638] 追跡A to Zテーマ投票。と4月番組。沖縄、日韓併合

追跡A to Zテーマ投票。と4月番組。沖縄、日韓併合、パレスチナほか  
 転送・転載歓迎 京都の菊池です。
先日放送された 追跡A to Z 4月3日(土)NHK 「無縁社会の衝撃」
http://www.nhk.or.jp/tsuiseki/file/list/100403.html
ETV特集 4月4日(日)NHK教育 第307回
殺すなかれ ~没後100年 トルストイの遺言~
http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html
とても興味深かったです。 ※NHKオンデマンドで見れるかもしれません。
4月の月間番組情報誌を見ていて、興味を惹かれたものを紹介します。
いずれも放送予定なので、変更になるときもあると思います。
4月25日 日曜夜 に次の放送が予定されています。
4月25日(日) 22時~NHK教育
ETV特集「シリーズ 安保とその時代 第1回 沖縄と内地の断絶」仮題
そのほか4月に沖縄関連として
追跡A to Z NHK http://www.nhk.or.jp/tsuiseki/
※ちなみに追跡A to Zでは番組に追跡して欲しいテーマに投票してください。
投票期間:4月3日~4月10日(※今日締め切り)
・児童虐待
・上海万博
・普天間基地問題
・子ども手当
・事業仕分け
・その他
と番組ホームページで募っています。
(詳しくは上記番組ホームページで確認してください。)
追跡A to Z 放送予定 2010年 4月10日 土曜 午後10時00分口10時43分
問われる情報公開 ~密約問題の真相を追う~
http://www.nhk.or.jp/tsuiseki/file/next.html

日本テレビのドキュメンタリー番組
NNNドキュメント'10で 沖縄 43年目のクラス会変わらぬ怒りと苛立ち
放送:4月18日(日) 25:20~予定
http://www.ntv.co.jp/document/より
・・・
日本テレビのライブラリーに、あるモノクロ映像が保管されている。
日本のTVドキュメンタリーの草分け ノンフィクション劇場 で放送された 我ら日本人 沖縄18歳の発言 だ。本土復帰5年前、米軍占領下で育った高校3年生が、基地経済に依存せざるを得ない不満や苛立ち、本土に対する期待や不信感など複雑な心情を吐露している。
その3年後1970年にスタートしたNNNドキュメントは高校生のその後の歩みを約40年、追跡取材してきた。
普天間基地移転が注目を集める今、間もなく還暦・定年を迎える彼らの目に、今の沖縄、日本という国はどう映るのか?・・・

いよいよ、日本と朝鮮半島2000年で1910年直前まで検証してきたNHKが日韓併合からの100年に取り組みます。
4月18日(日) 午後9時00分~10時13分 NHK総合
プロジェクトJAPAN
日本と朝鮮半島
第1回 韓国併合への道 ~伊藤博文とアン・ジュングン~(仮)
http://www.nhk.or.jp/special/onair/100418.html
NHKプロジェクトJAPANhttp://www.nhk.or.jp/japan/の一環としての
NHKスペシャル シリーズ「日本と朝鮮半島」
http://www.nhk.or.jp/japan/program/prg_100418_2.html

第1回「韓国併合への道」~伊藤博文とアン・ジュングン~(仮)
第2回「民族自決を求める声」(仮)
第3回「戦場に動員された人々」(仮)
第4回「冷戦に引き裂かれた在日コリアン」(仮)
第5回「日韓関係はこうして築かれた」(仮)
の内容を予定しているそうです。

ドラマ「坂の上の雲」では、琉球処分、日清戦争、日露戦争と、侵略戦争を始めた日本のことを描けないNHKがどのような、日韓併合100年と向き合った番組をつくるでしょうか。
どんな方向へ向くか心配もありますが、その一回一回の放送も大いに議論が行われるもととなり、多くの人が日韓併合100年、そして今を考える機会にもなればと望みます。
パレスチナについてNHKBS世界のドキュメンタリー
http://www.nhk.or.jp/wdoc)が再放送のものも含め3つ放送します。
NHKBS1BS世界ドキュメンタリーにて
4/13火曜 24時 再放送  奇跡の映像 中東分割の悲劇
4/20 火曜 24時 再放送 シャロン ガザ撤退の真実
(※この週のBS世界ドキュメンタリーは人物を取り上げていて、他の日はサッチャー、チャベス、キッシンジャーのドキュメンタリーが放送予定です)
4/26月曜24時パレスチナとイスラエルの音楽家たち 前編
4/27火曜24時
〃 後編
NHK教育の福祉ネットワークがシリーズ自殺は減らせるかを放送します。
4/12月曜、13火曜、14水曜20時~
日本テレビのNNNドキュメント'10も 4/25日曜24時50分~
「ハウスブルー 主婦たちのうつ事情」(仮題)
http://www.ntv.co.jp/document/参照
NHK関西は
2005年4/25から5年を前にして4/23金曜
19時30分~
かんさい熱視線特集「JR福知山線・脱線事故から5年~問われる事故調査と被害者支援」(仮題)を放送予定です。
労働について
4/24土曜22時30分
NHK追跡A to Zなぜ彼女たちは立ち上がったのか~キャバクラ労組・深刻化する女性の雇用
※追跡A to Zは4/17土曜22時は
「虐待の傷は癒えるのか~立ちはだかる゛社会の壁゛~」も放送予定だそうです。
地域紹介では
4/10土曜21時毎日放送(TBS系)世界・ふしぎ発見が ブラジルについて
4/23金曜22時05分NHKとびきり九州沖縄SP 海の国道
4/30金曜22時NHK世界ふれあい街歩き台南・台湾が興味深いです。
音楽関連では 4/14水曜 22時55分 NHK SONGS 岩崎宏美 4/23金曜 23時~ NHK教育 劇場への招待「わらび座゛火の鳥゛」
 ※ミュージカル サウンド・オブ・ミュージックのモデルとなったトラップファミリーについての映画 4/29木曜13時 NHKBS2 映画「菩提樹」(1956西独) 4/30金曜13時 NHKBS2 映画「続・菩提樹」(1958西独)の放送がうれしいです。 いずれも放送予定なので、変更になるときもあると思います。
菊池 ekmizu8791アットezweb.ne.jp (菊池へ送信の場合、アットの部分を@に直して送信してください。菊池)

質問なるほドリ:100年前の「日韓併合」、今の両国間で問題なの?

=回答・大澤文護  2010/04/07

2/12付け毎日新聞の首記の記事について会員から問題提起がありました。
「閔妃暗殺」については、どんな色めがねをつけても「実行犯が日本人か、韓国人かなどを巡って、」「さまざまな意見」がでるような根拠は見いだせません。
3/17のNHK出版「坂の上の雲 (NHKスペシャルドラマ歴史ハンドブック)」での閔妃暗殺事件の記述について を参照。
NHK出版の場合は責任をあいまいにしていますが、こちらは署名入りです。
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<NEWS NAVIGATOR>
◆100年前の「日韓併合」、今の両国間で問題なの? 
条約の適法性、見解に相違 流れ決めた「閔妃暗殺」にも謎

なるほドリ 今年は、日本が朝鮮半島を植民地化した日韓併合100年だね。何か特別な行事があるのかな。

 記者 李朝が国号を改めた大韓帝国が、1910年8月22日に締結された「韓国併合に関する条約」でなくなり、日本が朝鮮半島の支配権を手にしました。韓国では研究機関のシンポジウムなどが予定されているけれど、政府レベルの特別な行事は予定されていません。
 Q 日韓併合や関連する事件を巡って、今も意見や主張の違いがあるそうだね。
 A 例えば、日韓併合への動きを決定的なものにする契機となった事件に、1895年の「閔妃(ミンピ)暗殺」事件があります。李朝内部の親露派である閔妃が殺され、それ以降、李朝は急速に日本に近づいていきました。実行犯が日本人か、韓国人かなどを巡って、小説やノンフィクション、テレビドラマなどで、今もさまざまな意見や主張が出されています。
 Q 真実の解明は、やはり難しいのかな。
 A 決定的な証拠はないようです。それに日韓両国には「日韓併合条約の有効性」という大きな問題も残っています。日本は「条約の締結自体は合法であり有効だった」という立場ですが、韓国は「締結自体が違法であり、もともと無効」と主張しているのです。
 Q 最近、日韓関係はうまくいっているよね。
 A 年間約500万の人々が行き来し、日本では一時ほどではないけれど今でも韓流の人気は高いといえます。それに、日本の民主党が昨年の衆院選のマニフェストで「アジア外交強化」を掲げたことが韓国では高く評価されています。昨年10月の鳩山由紀夫首相の訪韓は、幸夫人が熱心な韓流ファンであることを含め、韓国ではとても好意的に受け止められました。
 Q 今後、意見の違いが克服される可能性もあるのかな?
 A 韓国側には、最近の鳩山政権の対米外交の混乱や政治資金問題に対する失望感も出ています。だから、楽観はできません。李明博(イミョンバク)大統領が今年訪日すれば、「日韓併合100年」をテーマに日韓首脳がどんな意見交換をするのか注目が集まるでしょう。(ソウル支局)
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 ◇あなたの質問をお寄せください
 〒100-8051(住所不要)毎日新聞「質問なるほドリ」係
naruhodori@mainichi.co.jp毎日新聞 2010年2月12日 東京朝刊
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中塚明氏からの投稿:

「毎日新聞、おまえもか!」といいたくなる内容ですね。しかも質問に答えてこの記事を書いているのが、「ソウル支局」の記者というのだから、驚きですね。とくに上段の「閔妃暗殺」に関わるところは、デタラメ。この事件が「併合」の「流れを決めた」というのはどういうこと? また「親露派の閔妃が殺され、それ以降、李朝は急速に日本に近づいていきました。」とあって、この記者、歴史的事実のイロハも知らないのではありませんか。

『毎日新聞』にもすぐれたソウル特派員や支局長がおられたと思いますが、最近の記者はこんなに情けないのでしょうか。
日本のマスコミの堕落、極まる!という感じですね。国際的な恥と私は思いますが・・・。  2010.4.5 中塚 明  

安川寿之輔さんの福沢諭吉批判を聴いて考えたこと 醍醐聰のブログ

 4月3日、東京、千駄ヶ谷区民会館で開かれた不戦兵士・市民の会主催の不戦大学「『韓国併合・大逆事件』100年と『坂の上の雲』」で安川寿之輔さんが、「「暗い昭和」につながる「明るくない明治」」と題する講演をされると聞き、連れ合いといっしょに出かけた。少し遅れて会場に着くと、受付で安川さんが準備された30ページに及ぶ資料が手渡された。
 安川さんはそれを読みあげる形で約120分に及ぶ講演をされた。講演の内容を丹念に紹介するゆとりはない。いずれ、活字にされるものと思うので、以下は、私が特に啓発を受けた箇所を紹介しながら、ところどころで感想を挿入することにしたい。

1.福沢諭吉の天賦人権論の虚実
 「明るい明治」と「暗い昭和」を対置する司馬遼太郎の歴史観は、近代日本を「明治前期の健全なナショナリズム」対「昭和前期の超国家主義」と捉える丸山真男の二項対立史観をわかりやすい表現に言い換え、踏襲したものである。そして、その丸山が明治前期の健全なナショナリズムの代表格として評価したのが福沢諭吉の天賦平等論であり、一身独立論であった。
 しかし、福沢の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズは、「・・・と云へり」という伝聞態で結ばれていることからわかるように福沢自身の思想を表したものではない(アメリカの独立宣言を借りたことばであった)。丸山氏はこの点をすっぽり落としている。「万人の」という意味では後掲の福沢の天皇制論に見られる愚民籠絡論や、ここでは紹介できないが工場法反対論にみられる貧困市民層に対する蔑視の思想、家父長制的な女性差別論などは、福沢の人間平等論の虚実を示す典型例といえる。こうした福沢の天賦人権論の虚実を精緻な文献考証を通じて徹底的に立証した点で安川さんの研究には特筆すべき価値があると感じた。

2.福沢諭吉の「一身独立論」の変節
 福沢が『文明論の概略』の中で、「人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず」、「一国独立等の細事に介々たる」態度は「文明の本旨には非ず」という正しい認識を記していた。(もっとも、順序としては「先ず事の初歩として自国の独立を謀り、(一身独立のような)其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」と述べ、「自国独立」優先の思想を明確にしていたが)。
 また、福沢は自ら、アメリカ独立宣言を翻訳するにあたって、「人間(じんかん)に政府を立る所以は、此通儀(基本的人権のこと)を固くするための趣旨にて、・・・・・・政府の処置、此趣旨に戻(もと)るときは、則ち之を変革し或は倒して、・・・・新政府を立るも亦人民の通儀なり」と訳し、人民の抵抗権、革命権を正当に訳出・紹介していた。
 しかし、かく紹介する福沢も自分の思想となると、「今、日本国中にて明治の年号を奉る者は、今の政府に従ふ可しと条約(社会契約のこと)を結びたる人民なり」と記して国家への国民の服従を説いた。
 さらに、その後、自由民権運動と遭遇した福沢は1875年の論説において、「無智の小民」「百姓車挽き」への啓蒙を断念すると表明し、翌年からは宗教による下層民教化の必要性を説き、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合せならん」という人間蔑視の思想を憚りなく公言するに至った。こうして福沢は啓蒙期の唯一の貴重な先送りの公約であった「一身独立」をも放棄したのであった。

 ところが丸山真男は、福沢自身が優先劣後の区別をした一国独立と一身独立の議論の実態を無視し、さらにはその後の福沢が一身独立の思想を放棄した現実を顧みず、個人的自由と国民的独立の見事なバランスと言い換え、両者に内在する矛盾、軋轢――後年の福沢の一身独立論を変節に導く伏線となる要因――を無視して、福沢賛美の根拠に仕立て上げたのである。

3.福沢の変節の極みとしての神権天皇制論
 安川さんの講演の中で開眼させられた一つは福沢の天皇制論に対する言及だった。福沢は『文明論の概略』の第9章までの記述の中では、たとえば、「保元平治以来歴代の天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑(いとま)あらず」と記し、「新たに王室を慕うの至情を造り、之(人民)をして、真に赤子の如くならしめんとする」のは「頗る難きこと」と述べて、天皇制に批判的な考えをしていた。
 ところが、福沢は1882年に「帝室論」を書く頃には天皇制論を大転換させ、「帝室・・・・に忠を尽くすは・・・万民熱中の至情」などと言いだした。これについて、福沢は国会開設後の「政党軋轢の不幸」に備えて人心の軋轢を緩和する「万世無欠の全壁」たる帝室の存在が必要になったと説くとともに、「其功徳を無限にせんとするが故に」帝室は日常的には政治の外にあって下界に降臨し、「一旦緩急アレハ」天下の宝刀に倣い、戦争の先頭に立つよう説いた。
 ところが、丸山真男は福沢が日常的にはと断って説いた皇室=政治社外論を一般化し、福沢が「一貫して排除したのはこうした市民社会の領域への政治権力の進出ないしは干渉であった」と誤解したのである。

4.福沢のアジア侵略思想の歩み
 1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国  政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。
 また、これに続けて福沢は、「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」と公言して憚らなかった。
 さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた1895年1月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・・・・」と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。
 こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。 また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを物語っている。

5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔
 安川さんの講演については、まだまだ、触れなくてはならない重要な指摘があるが、紙幅の関係でこのあたりにし、最後に、私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜかということを考えておきたい。
 まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。
 吉岡弘毅(元外務権少丞):「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」
 徳富蘇峰:「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」

 福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵――とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。

 かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。

 戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。
(2010/04/07)

学習会報告『今、なぜ「坂の上の雲」か(上)―日清戦争までを中心に』の要約

みやざき九条の会より
2010年1月25日(月) 18:30~20:00 宮崎中央法律事務所3階にて行われた、 瀬口黎生さんによる学習会『今、なぜ「坂の上の雲」か(上)―日清戦争までを中心に』の要約を瀬口さんよりいただきましたので掲載します。
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今、なぜ「坂の上の雲」か(上) -日清戦争までを中心に-
1. はじめに
昨年の暮れ、NHKは司馬遼太郎の上記の作品を全5回、計7時間半の大型ドラマとして放映しました。この小説は70年安保の時代の約4年にわたって産経新聞の夕刊に連載され、その後単行本や文庫本にもなって、大ベストセラーとなり広くサラリーマンを中心に読まれた「歴史物語」で、2000万部にも及ぶ発行部数です。
2. どんな読み物か
 ダウンロード
続きを読む                2010/04/05

投稿: 明治期の日本考える 松山で講演会 「坂雲」などテーマ

愛媛の弓山正路です。題記の記事が愛媛新聞に掲載されましたので紹介します。
「坂の上の雲」礼賛記事ばかりだった、愛媛新聞ですが、今回の記事を読み、共感してくれる読者が少しでも増えればと願います。

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愛媛新聞2010年4月4日 6面
明治期の日本考える 松山で講演会 坂雲などテーマ

 NHKドラマ「龍馬伝」や小説「坂の上の雲」で描かれる明治維新と明治期の日本像の問題点を考える講演会が3日、松山市内であり、精神科医で関西学院大教授の野田正彰さん(66)らの問題提起を通じ、市民ら約40人が歴史認識や日清・日露戦争について理解を深めた。
 平和や憲法問題に関心を持つ市民・団体が実行委を結成し開催した。

 高知市出身の野田さんは「若くしてテロに倒れた坂本龍馬は、青春像として理想を投影しやすい。しかしその後、どういう社会があったかをすべて忘れて龍馬だけ持ち上げていいのだろうか」と批判。高知での自由民権運動の弾圧や軍国主義への振幅などを紹介し、「わたしたちは個人としても社会としても統合された過去を持たなければならない」と歴史を部分的に切り取ることの問題を訴えた。

 また、えひめ教科書裁判を支える会メンバーで、小説「坂の上の雲」の歴史認識を問題視するブックレットを出版した高井弘之さん(54)=今治市=は「坂の上の雲」に描かれた朝鮮半島の植民地化の記述を問題視。「時代の必然や地理的な問題として正当化しようとしている。日本の進むべき道はほかにあったのではないかという問い掛けを発していない」として、自国の歴史に向き合うことの必要性を強調していた。(坂本敦志)
【写真】明治維新や明治期の日本像を考える講演会で話す野田正彰さん(左)と高井弘之さん=3日、松山市     2010/04/04

投稿:愛媛からの報告NHK松山放送局の「ファンミーティング」に参加して

松山放送局は標題の会を3月20日(土)は《プロデューサーによる制作秘話編》21日(日)は《驚異の最新VFX(視覚効果)解説編》と名付け、各90分の予定で説明会を実施しました。一日目は本部の菅 康弘チーフ・プロデューサーが2日目は制作技術センターの川邨 亮チーフ・エンジニアが講師を務めた会の概要は以下の通りです。

プロデューサーの役割
 ドラマの構想 脚本づくり キャスティングに加え予算や費用の管理 労務管理 危機管理などを行うと、石垣のある港の撮影場面に万一に備え、終日ダイバーを待機させたことを自慢げに語っていました。
愛媛の視聴率のこと
 お礼を申し上げたいと、第一部放映の際の視聴率は同じ時間帯に「K1タイトル戦」があり、東京ではそれに40%もの視聴率。その為「坂の上の雲」は平均で17.9になったが。しかし当地愛媛では「坂雲」の視聴率33%で、全国で唯一28%のK1を上回ったと、感謝の言葉を。これについては数年前に東京から転居した女性が、この程度では申し訳ない、80%位は欲しかったという会場からの発言もありました。
不思議なのは、愛媛ではテレビを所有している(みていないも含めた)全世帯の33%もが見た、と言いながらその他の視聴率、例えば第五部の12,9%については、何も言わないことで、都合に良いところだけ取り出している印象。しかし、私がレポートしたように、松山では松山市が学童まで動員した「坂雲」キャンペーン等々の結果が、ここに表れたようです。
NHKへの各界からのご意見について
 プロデューサー氏の言うところでは、寄せられた意見の内、一番多かったのは出演者の熱演を称賛するもの。次に多いのが、彼らの姿から元気をもらったということだ、とその内輪話の数々を。 
軍服や軍装へのクレーム、例えば真之が、腰に刀を付けている場合とない場合の指摘などだが、実は現に両方有った。この間に日本軍の軍装は、目まぐるしいくらい変化したのだと自信たっぷりに。
又会場からあった、艦橋での空豆の殻の食べ棄ても、真之に関してはあったと記録されている、とていねいな考証を自賛していましたが、それだけやるのなら、ドラマの背景になった朝鮮・韓国の当時の状況などにそうした配慮すれば、歴史の見直しに役立つ事実の発掘なども可能だったのではないか、と感じました。
以後の計画
 一部(一年目)を「青春編」だと思って作ったのは、日本全体が青春の状態だったことに対応している。そして二部の四本を「友情編」と考えるのは、二人の友人の死にあたるから。真之は、正岡子規はもとより、広瀬武夫とも非常に仲良しで、広瀬は秋山家に遊びに来ていた、と「軍神広瀬武夫」の英雄話を予告している。そして正岡子規役の、香川照之の英雄的演技を称賛していた。いわく、同氏は撮影開始から子規の末期を撮影するまでの、一年余で17㎏近く痩せ、自らが成人して以後の最低体重以下にしたのは、子規の体の厳しさを体現する演技を志したからだと強調していたのは、香川氏の打ち込み方を通してドラマの秀作ぶりをPRしている印象。残念ながらこんな話しが聴衆に受けるんですね。
 そして未完の今年末放映分の一部をVTRで、
その1 エカテリーナ宮殿で伊藤博文役の加藤剛とニコライ2世が会見する場面、
その2 闘病する正岡子規、
その3 広瀬武夫が戦没する福井丸の沈没シーンなどを披露されたのは、ここが今年末の12月5日(日)から4週連続で放映される第2部のメインとなると言うことでしょう。

エカテリーナ宮殿、これは帝政ロシアの皇帝・貴族の華やかさを象徴する、豪華かつ広大な宮殿だそうですが、これを丸一日借り切って、観光客もシャットアウトして撮影したのだそうです。なぜ安上がりのセット撮影か、ナレーションだけで済まさなかったのか、その理由を特に強調し「明治の日本はこんなすごい国と戦争し、勝ったのだ」と言うことを、「言葉によって」でなく、目で見て「実感して欲しかったからだ」と「坂の上の雲」を強調。このように、この説明会のようすからは、原作を更に大きく膨らませたドラマ化を目指しているように感じました。

その他の裏話
 放映をなぜ三年に分けるのかについては、全部を作るのは間に合わないからだ、すなわち、全部出来てから連続でやるなら可能だが2009年末にあわせるのはとうてい無理だったと、09年スタートに特別の思いがあるような口振りでした。
 何度か女性を多く出したい、と繰り返し、その関連で脚本は「司馬財団」と繰り返していねいに詰めた、と語っていましたが、それは「女性が多く出た方が、原作にはないが司馬さんの思いに沿う」と思うのですが、のように語りかけ、財団の了解を取ったという感じでした。
会場からドラマは、原作の小説より面白い。年末が待ち遠しいが、12月5日にいきなり第7部を放送されたのでは困るとの声に、勿論ですと今年の分の前に、09年末放映分を再度届けることと、それに向けてのメイキング番組や周辺情報の時間を多数設け、PRにつとめると宣言していました。
会場で唯一「ロシアや中国という日本と戦った国で、ロケーションするのに相手国の感情に配慮したか」という、NHKには耳障りだろうと思われる質問に、「撮影前にこのようなドラマの撮影だ」と台本を渡してあるので、例えば中国なら、それが気に入らなかったら撮影を許さない位なことをする国だが、撮影を許可したのだから問題ないと思う、と言うようなコメントでした。
総じてここの話を聞く限りは、ドラマの放映になぜ「韓国併合100年」の年にこれを放映するのかなど多数の危惧の声があり、只のつぶやきでなくNHKの自粛を求めるなどの申し入れがあることなどは意に介せず、原作に輪をかけてでも、近代日本の「歩みを讃える」事のみに邁進している印象を受けました。

 2日目の主にコンピューターグラフィックを駆使することの解説は、参加者は昨日の半分以下となり、話しも映像技術なので素人には、ただただすごい、そんなことができるのか、とビックリさせる様な説明に終始しました。会場からの質問も多数ありましたが、参加者みんなが共有するものは殆どありません。  
ただ最新の映像技術によると、コンピューター駆使で、通常なら撮影困難な映像や、本来あり得ない画面の合成もできる、それも技術の進歩に連れ、短時間で安価に仕上げることが可能になると言うことのようです。
 そうだとすると、気になる「坂の上の雲」の場合でも、本来あり得ない、例えば、全く悲惨さを感じさせないで、「凄惨な戦場」の場面を描写するような、又は私たちでは到底予測できないような映像により、視聴者を満足させることが可能になるようで、むしろこの進歩を懸念します。
以後は私の、全くの想像ながら、NHKは映像化のために司馬財団や福田みどりさんを説得するのに、司馬遼太郎の原作を膨らませ、「平和や国際的友好を促進する」方向よりも、「司馬さんの小説は歴史に残る大作」であり、そんな「価値あるものをこのまま眠らせてしまう」ことこそ司馬さんの本意に逆らうことになる。どうですNHKなら、最先端の技術を駆使して、司馬さんが懸念したことの一つである「大きなスケールになるから映像化困難」とされた点は簡単にはクリアできるし、更に、「戦争を悲惨なもの」と描くことなども回避できます。「悲惨な場面などは決して画面に出しません」のように説得して、財団から了解を得た可能性があると思います。
もしそうだとすると、この映像技術のとてつもない進歩が、とてもくせ者と言うことになりそうです。勿論問題は、その技術を駆使するNHKの在り様にあるのですが。

2010年3月27日          愛媛県  西原 一宇
 2010/03/29

投稿:秋山好古大将揮毫の忠魂碑 /露兵の墓前平和願う松山/慰霊祭に住民ら

秋山好古大将揮毫の忠魂碑

愛媛の弓山正路です。3月27日付愛媛新聞読者投稿欄に「秋山大将揮毫の忠魂碑」の写真が掲載されました。読者の説明とともに紹介します。
愛媛県人はNHKや松山市の宣伝の影響を受けているのは、たしかです。投稿写真を添付します。
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2010年3月27日愛媛新聞30面 
投稿欄 秋山大将揮毫の忠魂碑  読者

 新潟市の日枝神社境内に、秋山好古大将揮毫(きごう)の忠魂碑がありました。大正2年、第13師団長(中将)として在任中で、中将時代の石碑の日本海側での発見はこれが初めてのようです。 (17日撮影)
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「忠魂碑」で検索した文章と有名な「箕面忠魂碑訴訟」の内容を貼り付けます。「政教分離」で有名な「愛媛玉串料訴訟」は長文ですのでURLからお読みください。

忠魂碑 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E9%AD%82%E7%A2%91
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
忠魂碑(ちゅうこんひ)は、明治政府の成立以降、日清戦争や日露戦争での戦死者の供養のために、自治体で建立した碑。慰霊碑、凱旋碑という言い方をする場合もある。
また、両戦争最中の特定の戦闘での戦死者の霊を弔う目的で立てられたものもある。建立の主体となったのは帝国在郷軍人会で、1910年(明治43年)から始まり、その後、遺族会などが運営管理を行った[1]。教育的な意図をもって、小学校、中学校の敷地内に立てられたものもあった。
第二次世界大戦で敗北すると、GHQの指示で、かなりのものが撤去された。地元と縁がある将官に依頼して碑文を書いてもらうことが多い。

箕面忠魂碑訴訟 http://www.jicl.jp/now/date/map/27.html
Y.M.記「忠魂碑」という文字が刻まれた石碑を目にすることがあります。忠魂碑とは、元々戦没者の霊を慰霊・顕彰するために町や村で建立された石碑をいいます。その歴史は、明治時代の戊辰戦争までさかのぼることができますが、その後の日清・日露戦争以降に全国的に広まりました。また、かつての軍国主義の下では、軍事教育の一環として学校の敷地内に建立されたものも多くあったといいます。箕面忠魂碑訴訟は、学校の敷地となる場所にあった忠魂碑の移転と、その忠魂碑前で行われた慰霊祭に対する自治体の関与が政教分離違反として争われたケースです。

大阪府箕面市の箕面小学校では、生徒数の急増や校舎の老朽化によって校舎の増改築工事や校庭の拡張をすることが急務となりました。ところが、これらを行うためには、同小学校の用地に隣接していた土地の明け渡しを受ける必要がありましたが、そこに問題となる忠魂碑が建立されていたのです。箕面市は、この忠魂碑を管理維持していた地元遺族会に対し、忠魂碑の移転用地を取得して移設することと、その敷地を無償で貸与することを約束します。

他方、地元遺族会は、毎年この忠魂碑の前で神社神職または僧侶の主宰の下に、神式・仏式隔年交替でそれぞれの儀式のやり方で慰霊祭を行っていました。そして、1976年と1977年の慰霊祭には、市教育長が参列して玉串奉納や焼香を行い、また市職員や公費が用いられ慰霊祭の準備が行われたのです。これに対し、箕面市の住民は、これらの事実がそれぞれ日本国憲法20条及び89条の政教分離原則に反するとして2つの住民訴訟を提起したのでした。

大阪地裁は、1982年3月24日、まず前者について、忠魂碑の宗教的性質を認め、箕面市によるその移設と敷地の無償貸与が政教分離に反するとしました。また、1983年3月1日、後者についても、市教育長の慰霊祭への参列は公務とはいえず、その時間分の給与は不当利得となり返還義務を負うとしたのでした。これに対し、これらの事件を併合審理した大阪高裁は、1987年7月16日、忠魂碑の宗教的性質を否定し、遺族会の「宗教団体」としての性格を否定すると共に市教育長の慰霊祭参列は社会的儀礼の範囲を出るものではないとして、政教分離違反を主張する住民らの訴えを退けたのです。

 1993年2月16日、住民らの上告を受けた最高裁は、箕面市による忠魂碑移設並びに地元遺族会への敷地無償貸与と市教育長による慰霊祭参列のいずれについても、憲法の政教分離原則に反するものではないとして、上告を棄却しました。それを判断する際に最高裁が用いた基準が、いわゆる「目的・効果基準」と呼ばれるものです。これは、問題となっている公権力の行為の目的が宗教的なものであるかどうか、そしてその効果が特定の宗教を援助、助長、促進あるいは圧迫、干渉するものかどうかによって、その行為が政教分離原則に反するかどうかを判断する、という基準です(憲法MAP愛媛編・愛媛玉串料訴訟も参照)。しかしながら、この基準は、用いられ方次第では、公権力と宗教とのかかわりを緩やかに認めてしまいかねない余地を残しており、現に本件ではそれが現実のものになってしまった感は否めません。確かに遺族会は「宗教団体」ではないにしても、それが管理維持する忠魂碑や、またそれが執り行う宗教的な行事について公的な財政援助を行うことの実質的な意味を厳密に検討することが、本件においては問われるべきことだったように思われます。

愛媛玉串料訴訟  http://www.jicl.jp/now/date/map/38.html

. ロ兵の墓前平和願う 松山 慰霊祭に住民ら40人

愛媛の弓山正路です。題記の見出しの愛媛新聞記事を紹介します。 
日本とロシアの友好を深めるのに、「坂の上の雲」ドラマが果たして貢献するのか、逆に日本の優越意識・軍国主義礼賛を助長し悪影響を及ぼすのではないかと危惧します。

「坂の上の雲」で司馬遼太郎は、ロシア兵捕虜に対して国家をあげて優遇したと書いていますが、実態については、高井弘之著・検証「坂の上の雲」ブックレット32ページからをお読みください。
決して日本が国をあげて優遇したのでなく、虐待していた事実が記されています。  その中で、松山捕虜収容所の部分を紹介します。
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最後に、「優遇」したということで有名な松山捕虜収容所のことについての証言も、少しだけ紹介したい。
〔略〕一般捕虜に起きた事件について若干述べてみよう。
(一)ほかのバラックから少し離れた所にある別名「隔離病棟」で、松葉杖無しでは歩けない負傷兵が立入り禁止の中庭に入ったことで作業員(このバラックには看護婦はいない)に松葉杖で殴打された。彼はバラックから七歩以内の歩行許可をもらっていた。それ以来彼はベッドから起き上がれなかった。〔中略〕
(三)ある兵士は、禁を犯して官給じゅばんを風呂場の熱湯で洗濯したかどで数時間立たされた(当時彼の足の傷はまだ癒着していなかった)。下着の交換はごくまれで、兵隊たちは一か月半も同じシャツを着せられていた。」
(F・クプチンスキー著『松山捕虜収容所日記─ロシア人将校の見た明治日本─』/中央公論社)ブックレット検証「坂の上の雲」高井弘之著p35
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2010年3月26日 愛媛新聞 11面
ロ兵の墓前平和願う 松山 慰霊祭に住民ら40人

 日露戦争の捕虜が眠る松山市御幸1丁目のロシア人墓地で25日、第50回慰霊祭(市主催)があり、保存活動に取り組む住民ら約40人が、帰郷を果たせず異国で人生を終えた兵士の冥福を祈った。
 同墓地には、日露戦争で捕虜となり松山収容所で亡くなったワシリー・ボイスマン海軍大佐ら98人が埋葬されており、地元の勝山中学生や老人クラブなどが清掃している。
 同日は同校生徒会長の曽根夏生君(14)が「ロシア兵を親身に世話した市民の美しい心を受け継ぎ、地域の協力を得て、奉仕活動を続けてきた。地道だが素晴らしい活動から世界平和が広がることを望む」とあいさつ。参列者がそれぞれの墓前に献花して合掌した。
 在大阪ロシア連邦総領事館のイワン・プロホロフ総領事は一つ一つの墓碑銘に目を通し「墓地を見守り平和を願う松山市民は戦争の残酷さを誰よりもよりよく分かっており、日本、ロシア間の理解と友情を強いものにしてくれた」と謝辞を述べた。(森田康裕)
【写真】日露戦争で捕虜となり松山市で亡くなったロシア兵の墓に花をささげる参列者
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なお、ブックレット検証「坂の上の雲」の注文については下記HPに掲載しています。ご一読ください。
弓山正路 myumi@icknet.ne.jp
えひめ教科書裁判資料
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/zxvt29/sub2-sabannsiryou.htm
小説『坂の上の雲』及びNHK放映をめぐる資料
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/zxvt29/sub4/4/sakakumo.html
2010/03/29

3/13の 『坂の上の雲』と日露戦争 於市民連帯集会 報告

政治の変革をめざす市民連帯MLから転載
3/13 CS政治討論集会 報告
   日時:3月13日(土)午後2時~
   講演:深津真澄 氏(ジャーナリスト)
   テーマ:司馬遼太郎をどう見るか
   司 会:林 克明   主催:政治の変革をめざす市民連帯 

「司馬史観をどう考えるか」
 2010・3・13 『坂の上の雲』と日露戦争 於市民連帯集会 レジュメ
講演:深津真澄 氏(ジャーナリスト)
1)「司馬史観」とは何か
・幕末から明治時代への作品群。『竜馬がゆく』『翔ぶが如く』『坂の上の雲』『峠』『歴史の中の日 本』『明治という国家』『この国のかたち』などエッセイ、講演多数
・司馬史観否定論 から靖国派の利用まで。史観は誰にも、どの時代にも存在する
・「明るい明治」と「暗い昭和」の二項対立史観→日露戦争以後をなぜ書かなかったか
・江戸、明治に対する愛情、マルクス主義歴史観への反発、民衆よりエリート重視

2)小説『坂の上の雲』の構造・三人の主役=正岡子規、秋山好古・実之兄弟。三人は伊予松山の同じ町内で生まれ、国 家として 青春期を迎えようとした明治日本の発展にそれぞれの役割を懸命に果たした
・「明るい健気な明治」=書き出し「まことに小さな国が開化期を迎えようとしている」 「一朶 の白い 雲をのみ見つめて」→タイトル、町工場のような小さなひらけた国家
・日露戦争の性格規定=祖国防衛戦争、国民戦争。「当時の日本人は精一杯の智恵と勇気と幸運をつかんで外交能力の限りを尽くして勝利をかちとった」
・独特な文体=小説というより文明批評的エッセイ、鳥瞰図的小説作法の完成形

3)日清・日露戦争と史実
・「明るい明治」による史実切り捨て=「朝鮮半島という地理的存在」「多分に受け身」山県有朋の朝鮮利益線論、隠された日清戦争の発端、旅順虐殺事件、妃惨殺事件無視・祖国 防衛戦争といえるか=シベリア鉄道の東進、ロシアの遼東半島租借、国民的脅威感 本質は朝鮮半島支配権をめぐる帝国主義戦争=第一次世界大戦に先立つ「第零次世界大戦」→日英同盟と英露の世界戦略、韓国の局外中立宣言無視、対露戦の兵站基地、連絡基地として実質植民地化、韓国併合は総仕上げ、日清・日露はセットの戦争

4)司馬の戦後歴史学批判・悪玉か善玉かで捉える歴史学に近代精神はない=執筆時期(1968~72)の反映「明治一〇〇年、高度成長、左翼学生運動の世界的拡大、72年の連合赤軍事件の衝撃・東大教養学部報の『坂の上の雲』評価座談会=歴史学側の自己批判。生きた歴史の実感・司馬の戦後日本評価=軍国主義日本の否定、史上初めて国民が食える、死ぬほど好き・司馬の功績=近代日本の歴史に大衆的関心を集めた、安心して生きた歴史を知った実感 

5)司馬史観で解けぬ謎
・大正期無視の一直線史観=合理的でリアリズムに徹した明治の日本人はなぜ昭和前期の 軍国主義に転落したのか、日比谷焼討事件から統帥権日本に直結したといえるのか
・『近代日本の分岐点』の主題=植民地支配が生んだ軍部の権限強化→・満州問題協議会による 軍部押え込み
・師団増設問題と上原参謀総長の単独辞任による西園寺内閣退陣・シベリア出兵の狙い
・バーデン・バーデンの密約による中堅幕僚層の政治集団化・山梨軍縮と宇垣軍縮の反動による危機感・満州事変予告編としての張作霖爆殺事件

6)私の結論=
・司馬作品を歴史そのものと思い込むな、
・「明るい健気な明治人」とい見方に立って実際の歴史過程から切り出して来た物語である。
・史実を絶対とする歴史学と史実のデフォルム、切り捨てもあり得る文学作品とは違いがあって当然
・歴史をつくるのは人間であり、戦後歴史学は実証を重視するあまり人間不在だった。 

<質疑>
M:日本は欧米列強の近代化を追いかけていた、というのが司馬さんの認識か。
F:深津さんは寛容だ。司馬は100%史実通りだとどこかで主張している。読者は彼の小説を必ずしも歴史に忠実ではない物語だとは読まないだろう。
深津:そのようなご意見はあるだろうと思っていた。確かに第五巻に事実に100%拘束されると述べているところもある。例えば戦闘場面などは長々と経過そのものを事実に沿って丁寧に記述している。しかし切り捨てられている部分もたくさんあるのも事実だ。
M:犬丸義一さん曰く「歴史の勉強にはロマンが必要」。彼がこういうのは意外だと感じたがなるほどと思うこともある。
A:年取ると許すようになる。相互にないものねだり状態ではよくない。歴史小説家にねじまげや切捨てが生じる。結局は作者の好みの問題か。
深津:好みを意識的に排除して純粋化、客観化するのは困難だと思う。例えば小村寿太郎の悔しさから生まれた怒りによってアメリカ排除の満州鉄道建設があったのではないか。小村の悔しさを理解しつつ両者を公平に書き込むべきでそのように努力するが、これを現在時点で裁いてはいけないと思う。底の浅いものになってしまう。小村個人の責任というより当時の日本全体の体制が招いたものだと私は認識している。
Y:司馬は陽気だ。作家には正反対な欝気味と二種類ある。坂本竜馬も陽気で、司馬はそういう点でも 坂本を好きだったのではなかったか。
深津:竜馬を好きでその延長で歴史を見ていったのではないか。反対に乃木はその精神主義と妻への態度などの面で嫌いだったと思われる。司馬は乃木以外は殆どの場合、主人公に愛情をもって書いていた。幅広い新聞に書いていたが、全紙の編集者から好かれていた。逆に言えば人間の救いようのない冷酷さなどは書けなかったのではなかったか、司馬の限界かもしれないが。ノモンハン事件は取材はしたが途中で嫌になったらしく書いてはいない。明治以降のことを書いてない三つの理由 
①日本軍の酷さが分かって描くことが苦痛になった 
②昭和の陸軍に天皇をどう位置づけるか、立憲君主制と見れば天皇の言動が憲法の範囲内であれば戦争責任はないとなるが、現実ではどうか、書けなかったか 
③明治以降のことで書いためずらしいのものに正岡子規の養子と友人を中心にした「ひとびとの足音」がある。これは明るい。
K:晩年には在日韓国人に理解を示していたようだ。NHKがなぜ3年がかりでのドラマ化に踏み切ったのか?
深津:在日問題は書いたものは見当たらないがそうだったのだろう。映像化を一貫して拒否していたのもそのような問題への反省があったのかもしれない。NHKもそのあたりを考慮して慎重にドラマつくりしていると思われる。ナショナリズムを煽ることなく、センセーショナルにならないように作っているようだ。
Z:史実中心でなく個人の人間の評価を基本にするというのは理解できるが、作品とは別に司馬の歴史へのスタンス、昭和天皇への評価が高いことをどう見るか。
深津:ご自分なりの司馬観をつくればいいのでは。司馬の日本軍国主義の馬鹿らしさ、酷さに対する心底からの怒りをもっていたのは本物。これが読者に安心感を抱かせる。軍国主義のナショナリズムは否定するが明治時代の初々しいナショナリズムは評価すべきと考えていたのだろう。リアリズム、合理主義の人であった。なんでも一辺倒で見ることを嫌っていた。土地バブルへの怒りも大きかった。経済政策の誤りやオウム事件への主張も持っていた。
S:日本人とは何か、がテーマだったと感じている。一方、暗い面を避けることがあったのではないか。
深津:暗い面を書いた作品もある。作家だから、、、。     以上

4・18シンポジウム―朝鮮植民地化から100年

ー東アジアの平和と共生をめざしてー
「韓国併合」100年市民ネットワーク より転載
今年は「韓国併合」100年。しかし、いま だに「韓国併合」が適法だったのか違法だっ たのか、無効だったのか有効だったのか、その評価は日本の中で定まっていません。
こんなことで日韓関係は「未来志向」で発展していくのでしょうか?
「韓国併合」100年という地点に立って、 もう一度「韓国併合条約」を問い直してみよ う、そんな趣旨で 4月18日にシンポジウム を開催します。日韓の研究者によって「韓国併合」を歴史的、法的に検証していきます。 是非、ご参加ください。
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さる 1月 31日、東京において、 200名をこえる参加の下で「韓国強制併合 100年共同行動」日本実行委員会が結成されました。同実行委員会は、韓国強制併合から 100年を迎える今年、 8月 22日(日本)、 8月 27~29日(韓国)での日韓市民共同宣言大会の開催を中心に、今なお清算されていない植民地支配の清算と平和な東アジアを実現していくために、日韓の様々な団体の協力・共同で、日本政府への要請やキャンペーンを展開していこうとするものです。
今回の企画は、その第1弾です。皆様の積極的な協力・参加をお願いします。
***シンポジウムの案内***
◇ 日時:4月18日(日)午後2時~5時 (開場 1時30分)
◇ 場所:全水道会館大会議室 ( JR水道橋駅から徒歩3分)

◇ パネリスト 李泰鎮さん(ソウル大学名誉教授、著書「東大生に語った韓国史」「国際共同研究 韓国併合と現代」笹川紀勝さん(明治大学教授、著書「韓国併合と現代」「自由と天皇制」等) 姜徳相さん(在日韓人歴史資料館館長、著書「朝鮮人学徒出陣」等)
◇ 参加費700円(学生500円) 【会場案内図】全水道会館(文京区本郷 1-4-1 03-3816-4196)
案内チラシ http://www.nikkan100.net/100418syukai.pdf
主催:「韓国強制併合 100年共同行動」日本委員会
(共同代表伊藤成彦、姜徳相、鈴木裕子、宋富子、中原道子、山田昭次) (連絡先 ピースボートとうきょう 03-3362-6307新宿区高田馬場 3-13-1-B1)10/03/27

投稿:福田みどり氏の「菜の花忌」での発言について 中島 晃(弁護士)

  3月13日の朝日新聞朝刊に、「ことば」と題するコラム欄があり、そこに「福田みどりさん(司馬遼太郎記念財団理事長)」の14回目の「菜の花忌」シンポジウム(2月13日)における発言がのっている。
 その発言は、NHKドラマ「坂の上の雲」が放映されるまでの葛藤をふり返って、
「司馬さんは『坂の上の雲』だけは映像化したら嫌だ、これは遺言だと言っていました。 それを裏切ることになって、私なりに理由もあったのですが、悩んでおかしくなって、おびえてしまうようになっていました」としたうえで、
「戦争賛美と誤解されないよう、司馬さんの精神がまっすぐ伝わるよう、どうすればよいのか、何度も(心の中の)司馬さんと話しました。よそ行きのスーツを着た司馬さんではなく、パジャマ姿だったり、ソファに寝ころんでいたりする司馬さんです。私はこれまでで今が一番深く司馬さんとつきあっているような気がします」というものである。
 「坂の上の雲」だけは映像化しないという司馬遼太郎氏の遺言は、生前、これをNHKブックスという公刊物に掲載して発表されており、遺族に向けられているだけではなく、多くの読者にも向けられた半ば公的な約束ともいうべきものである。
 したがって、遺族がこれを映像化することは、作者の遺言に対する裏切りだけではなく、読者に対する裏切りでもある。
 こうした二重の裏切りを犯したうえで、はじめてNHKが「坂の上の雲」をドラマとして放映することが可能となったことを考えると、遺族の責任はきわめて重いものがあり、その経緯と理由について、読者にきちんと説明する必要があるといわなければならない。
 したがって、福田みどり氏が「私なりに理由もあった」というのであれば、その理由とは具体的に何かを明示すべきであり、パジャマ姿やソファに寝ころんでいたりする司馬と何度も話し合って了解を得たかのようにいうことは、いかに著作権者であるとはいえ、読者を愚弄するに等しいものといっても過言ではない。
 福田氏が、昨年末に放映されたドラマの第1部について、「司馬さんの世界に心を込めて向き合っていて、感動しました」と述べて、遺言に対する自らの裏切りの正当化を図っている。

 しかし、「坂の上の雲」が日露戦争のそのものを肯定的に描いていた作品であり、戦争の悲惨さや非人道性をテーマとしたものではないことからいって、これを映像化することがいかに大きな危険をはらんでいるかについて全く認識しておらず、作者の残した遺言のもつ意味の重大さに気づいていないのは、まことに残念なことである。
 この程度のことで、読者に対する裏切りが許容されると考えるのであれば、それは司馬遼太郎氏に対する読者の信頼そのものを大きくそこなうことになるばかりではなく、国民的作家とされている司馬氏の業績に消しがたい汚点を残すことになったのではないだろうか。 (3月23日記す)
参考:菜の花忌シンポ 「『坂の上の雲』と日露戦争」を語る (産経 02/13)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100213/acd1002131807001-n1.htm ──────────────────────────────
醍醐 聰氏からの返信

中島 晃様
ご論稿、読ませていただきました。今回の福田みどりさんの発言を見過ごさず、問題点を突く批判を明らかにされたことに深く共鳴しました。

ご論稿の中の「読者への裏切り」の意味が十分に理解できていませんが、「司馬氏の遺言を裏切ったのではないか」と後ろめたさを吐露する一方で、放送されたドラマを見て、「感動した」と語る福田さんの言動を第三者が理解するのは困難です。
ドラマ化を承諾した心の葛藤を人前で語るのなら、ドラマ化を承諾した「私なりの理由」なるものを公にすることこそ、司馬氏と読者に対する真摯な責任を負い方だと思います。

と同時に、私は以前から時々言っていますが、NHKに対し、ドラマ化の許諾を得るにあたって、著作権承継者と交わした同意(文書)のせめて要旨だけでも公開するよう求める必要があると考えています。

凄惨な戦場の場面の描写等を避けたり、朝鮮王宮占領事件や朝鮮王妃殺害事件をナレーションでさらりと済ませたりしたからといって、原作の好戦趣向、対朝鮮侵略を正当化した原作の歴史隠ぺいの事実を消し去ることができるわけではありません。

また、原作を脚色する番組制作者の裁量の余地を理由に原作のドラマ化に対する批判を躊う一部の意見も大きな誤りだと再度、指摘したいと思います。

むしろ、私はひとたび、ドラマ化すると決めたなら、凄惨な戦場のシーン(たとえば、肉弾が飛び交った旅順攻防戦を体験して真之が衝撃のあまり出家して、敵味方なく戦死者を弔いたいと言い出したことなど)をしっかりと描き、戦争の実相を少しでも伝えるよう努めることが制作者の役割といえるでしょう。

この数年の間に見たナチ・ドイツ時代の洋画――「戦場のピアニスト」、「カティンの森」、「誰がため」などーーはこれでもかこれでもかというくらい、虐殺の場面を描き切っています。
醍醐 聰

「坂雲」ここでも人気 横須賀市の戦艦「三笠」

投稿:愛媛県今治市の弓山正路です。   10/03/24
3月23日付愛媛新聞「読者投稿・みもの」欄に横須賀市の戦艦「三笠」が題記のように紹介されていました。
見学者が増えているとのこと、ドラマの影響力の大きさに注意を払う必要があります。
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2010年3月23日 愛媛新聞 26面より
「坂雲」ここでも人気 読者の投稿
横須賀市に保存されている連合艦隊旗艦「三笠」。艦内で「秋山真之と正岡子規展」が開かれていました。NHKドラマ「坂の上の雲」放映後、見学者が増えたそうです。(16日撮影)
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記念艦「三笠」公式ホームページ|神奈川県横須賀市
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/
(参考)「新しい歴史教科書をつくる会」扶桑社版 歴史教科書「歴史の名場面 日本海海戦」(p169)
このような戦意高揚をはかる記述の教科書をこの4月から、今治地区の中学生は使わされてしまうのです。「三笠」の例ひとつで「坂の上の雲」と「つくる会」教科書が1本の線で結びつきます。
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秋山真之の功績しのぶ 松山 生誕142年祭 いり豆振る舞う 10/03/23
2010年3月22日 愛媛新聞 9面 より
秋山兄弟ははたして本当に『無私の精神』であったのか、それが検証されなければなりません。(弓山正路氏提供)          ◇   ◇   ◇   ◇
司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に登場する明治期の軍人・秋山真之の生誕142年祭が21日、松山市歩行町2丁目の秋山兄弟生誕地であり市民ら約200人が参加した。【写真】振る舞われた煎茶を楽しむ出席者

秋山好古・真之兄弟の功績を後世に語り継ごうと、常盤同郷会(平松昇理事長)が生誕地を整備した2005年から、真之の誕生日の3月20日ごろに行っている。
式典は天候不良のため生誕地内の武道場で実施。真之の孫・大石尚子参院議員が「祝っていただき感無量。真之も喜んでいるはず」とあいさつした。武道場内の真之胸像に献茶した後、煎茶(せんちゃ)を味わった。

ドラマ「坂の上の雲」や小説の中で真之が食べるいり豆をヒントに、ことし初めていり豆のプレゼントを実施。しちりんでいった豆を生誕地のボランティアガイドが手作りした伊予かすり製の小袋に入れて、参加者に振る舞った。園児や小学生による琴の演奏もあり、出席者は真之の人柄や秋山兄弟の無私の精神に思いをはせていた。        (桧垣修)

ドラマ「坂の上の雲」と朝鮮半島

多面体Fさま より転載
3月11日(木)夜、練馬区役所会議室で大日方(おびなた)純夫さん(早稲田大学文学部教授)の「ドラマ『坂の上の雲』と朝鮮半島」という講演会が開催された(主催:ねりま日朝女性の会)。ねりま日朝女性の会は韓国併合100年の歴史を3回シリーズで学ぶ学習会を企画し、これが1回目に当たる。
大日方さんは、司馬が書いたままに読むと朝鮮の歴史の何が見えなくなるか、このテレビドラマを見るとき何に留意すべきかを話された。なお大日方さんは、日本・中国・韓国三カ国の歴史学者が共同編集した「未来をひらく歴史(高文研 2006年7月 第2版)の日本委員会の代表の一人である。
6時半スタートでわたしは遅れて参加したため、「はじめに」で語られた「併合」という言葉の意味や併合と国際法などの部分は残念ながら聞けなかった。

1 『坂の上の雲』のなかの朝鮮列島
(1)日清戦争
司馬遼太郎は、この戦争の原因を地政学に求める。清国が朝鮮を属国視しロシアも朝鮮をねらっていたが、朝鮮を他の強国に取られると日本の防衛は成立しない。「朝鮮の自主性をみとめ、これを完全独立国にせよ」というのが日本の言い分で、多年言い続けてきた。これが司馬の主張である。しかし地理的条件を持ち出すと人間が消えてしまう。民衆や庶民がみえなくなる。
また「朝鮮の自主性を言い続けた」のは事実だが、公式文書は戦争の正統性や大義名分を主張する文書なのである。1876年の日朝修好条規をみれば言い分が本当でないことがわかる。たしかに当時の人は政府の主張や言論人の主張をみて「正義の戦争」と考えていただろう。しかし、そのままドラマにして現在の視聴者が「当時の人々はそう考えていた」と理解すれば、100年前の認識に引き戻されることになる。当時の人々の認識としては「事実」だが、現在の視点を交錯させないと歴史の「真実」と逆になることもある。
次に司馬は、「韓国自身の意思の力でみずからの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった」と、朝鮮の無能力を強調する。朝鮮の近代化、文明化を助けるために日本が清国と戦争をしたという歴史認識に陥ることになる。当時も今もあるこの歴史認識にいったん陥ると、日本の支配に対し朝鮮人の民衆の抵抗があったことが見えなくなる。
また、司馬は、この当時は他国の植民地になるか、帝国主義国に仲間入りするか、その二通りの道しかなかったと、「帝国主義時代の宿命」という考え方を強調する。しかしこれでは先の地政学を原因とする見方と矛盾する。
(2)日露戦争
司馬は、原因をロシアの日本への侵略性に求め、ロシアが日本を窮鼠にし猫を噛むしか方法がなかったと、日露戦争が祖国防衛戦争であることを強調する。
これについては、ソ連崩壊後帝政ロシアの文書を読めるようになり、ロシアにも穏健派と強硬派があったことが明らかになってきた。当時の日本人が主観的に「ロシアが攻めてくる」と思っていても、実際に攻めてくるかどうかという客観的な国際情勢とは区別すべきだ。主観的側面だけとらえると過剰防衛になりかねない。また日本にとっての防衛は朝鮮の人には支配・侵略となり、侵略が正統化される。その結果大韓帝国は見えなくなる。
そして「国民は一丸となって戦った」というが本当だろうか。原敬日記に「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり」(1904年2月11日)と書いている。幸徳秋水、堺利彦ら非戦派もいた。講和条約を結んだ1905年9月には日比谷焼打ち事件が起き国民の不満が爆発した。司馬は「日露戦争までは明るく上り詰める道だった」というが、けしてそんなことはない。

2 『坂の上の雲』が隠す朝鮮半島
(1)日清戦争と朝鮮半島
1871年日本と清国は、日清修好条規という対等条約を結んだ。朝鮮は中国と宗属関係があるので、日本からみると下ということになる。75年軍事力を背景に、不平等条約である日朝修好条規を結び、日清戦争後には清国にも不平等条約を結ばせた。一方、欧米各国とは幕末の不平等条約を対等条約へと改正し、1911年に条約改正は完成した。日本はこうした二面的外交を展開した。
幕末に日本で欧米への反発が強まったように、1882年壬午軍乱という反日暴動が起こった。いったん収まったが、国内で急進派と穏健派の対立が深まる。急進派は日本と結びつきクーデターを起こすが失敗する。これが日清戦争の10年前のことである。大きな構図でみれば、清国中心の秩序を日本が新しい国際関係に編成替えしようとしていたのである。
日清戦争の直接のきっかけは1894年の甲午農民戦争に日清両国が出兵したことだった。農民軍は全州和約を結んだので両国の出兵の理由はなくなったが、日本軍は94年7月23日に王宮を占領して日本寄りの政権をつくり「朝鮮政府からの依頼」というかたちで、7月25日に日清戦争が始まった。
戦争の前半のおもな戦場は朝鮮国内だったので、10月に農民軍が再蜂起した。しかし日本軍の皆殺し作戦で、戦闘や虐殺による死者は20万とも30万ともいわれる。
日清戦争で日本が勝利し、清国と朝鮮の関係は切れ、朝鮮と日本が結びついた。
建前上、朝鮮は独立自主の国だったので、井上馨公使は第二次金弘集内閣に改革を進めさせた。しかし朝鮮では閔妃を中心に親露派の勢力が強まり井上の構想は挫折した。次の公使・陸軍中将三浦梧楼は王妃殺害をもくろみ、95年10月8日日本公使館員や壮士が宮殿に侵入し、閔妃を斬殺し遺体を焼きすてた。異常な事態である。朝鮮の民衆の反日反開化感情が高まり、国王がロシア公使館に逃げ込む事件が起こった。その結果朝鮮をめぐる対立は日清から日露に変化する。
(2)日露戦争と朝鮮半島
1904年2月日本はロシアに対し宣戦布告した。宣戦の詔勅に「帝国ノ重ヲ韓国ノ保全ニ置ク」と日本にとっての朝鮮半島の重要性を指摘し「若シ満洲ニシテ露国ノ領有ニ帰セン乎韓国ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス」と、平和のための戦争であることを強調する。「平和」は開戦のための常套句である。2か月前の12月「いかなる場合も実力で韓国を日本の権力下に置く」ことを閣議決定し、開戦2週間後の日韓議定書で、ロシアが韓国を侵害したとき日本はどこでも軍事上必要な地点を収容できることを認めさせた。次に04年8月第一次日韓協約を結び、財政顧問、外交顧問を置き顧問政治を始めた。日本はロシアと戦争しながら朝鮮半島の支配を拡大していった。戦争末期の05年7月から9月にかけてアメリカ、イギリス、ロシアに日本の支配権を認めさせた。国際世論の反対が起こらないこの時期をチャンスに、日露戦後の11月軍事力を背景に第二次日韓協約を結んだ。日本は外交権を掌握し、韓国統監府を置き保護国化した。この協約が合法かどうか日韓政府の間で議論がある。
この過程で、韓国では激しい義兵闘争が起こった。07年7月にはハーグ密使事件が発覚し、これを機会に日本は内政権も掌握し韓国の軍隊を解散させた。日本が韓国併合を目ざし牙をむいたかたちである。
09年7月には「帝国百年の長計」として韓国併合方針を閣議決定し、翌年8月22日「日本の恩恵」により韓国を併合し植民地とした。日本の国民の目から義兵闘争は隠された

3 “雲”の向こうの真実を見るために
小説は読者がいないと成り立たない。読者を得るには共感を引き出すことが必要となる。秋山兄弟や正岡子規といった主人公になりきり、彼らの言葉をもって語る。同時に、語る言葉が時代と共鳴する必要がある。司馬が執筆したのは、日本が高度成長時代での上っていく時代で、上昇気流に乗り人びとは明るい未来を期待した。
司馬が膨大な資料に基づいて書いたことは事実だが、小説家に挙証責任はいらない。主人公の言葉で自分の思いを語る。一方、歴史は残された文書は読めるが、当時語った言葉は復元できない。小説は歴史的事実とイコールである必要はない。二つの違い、区別を押さえる必要がある
またどういう視点でみているか、確認する必要がある。軍人や政治家、英雄の目でみるか、庶民の目でみるかで違ってくる。一面の事実は巨大なウソになることもある。民衆の目、女性の目、子どもの目、いろんな目で見るとどうなるか、思考実験をしてみる必要がある。
また当時の人の目で見て共感することは不可欠だがそれで終わってはいけない。当時の人には見えなかったことが、100年後のいまなら見えることがある。たとえば国際関係だ。
坂の上の“雲”に隠れた向こう側の真実を見抜く目が必要である。

☆「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝会長は「私が『自由主義史観』を構想する上でも司馬作品は大きな位置を占めた(略)決定的な分岐点は、日露戦争を扱った『坂の上の雲』との出会いであった。この作品は私の中にあった『東京裁判=コミンテルン史観』を根底から揺るがすのっぴきならない問いをつきつけるものであった」とこの作品への強い共感を告白している?(「司馬史観」の説得力 96年6月)。そしてロシアが領土を次々に拡張したので、朝鮮半島がロシアの銃剣の役割を果たしたため、日本が先制攻撃を仕掛けて始めたのが「祖国防衛戦争」である日露戦争だと、まったく司馬と同じ論調を展開する(戦略論から見た日本の近現代史と歴史教育 96年6月)。ここから97年1月、会を設立して扶桑社版歴史教科書を作成し、2001年全国での採択戦に参入するまで一直線の道をたどった。そして彼らはいま「外国人地方参政権付与法案」反対運動など排外主義的な活動を全国的に展開している。
☆4世の子どもを東京朝鮮中高級学校に通わせている3世のお母さんから、子どもたちが集めている署名について、緊急アピールがあった。
3世ともなると、民族の誇りや自尊心を家庭で教えるには限界がある。自分が祖父母から受けた教育を民族学校にお願いすることになる。自分のころは、インターハイなどには参加できず、大学進学は大検での資格取得が必要だった。いまはインターハイ、合唱コンクールなど日本人の高校生が出るたいていの大会で参加できるようになった。大学も国立でも私立でもストレートに受験できる。ただ1条項でないので、助成については事情が異なる。民主党政権に変わり、法案の段階ではインターナショナルスクールや中華学校と同じように助成が適用されるということだったので、うれしかった。しかし朝鮮学校だけ除外されると聞き、ショックは二重三重の大きさに感じる。どうか、日本の心ある方々の力添えをいただきたい。

NHKドラマ「坂の上の雲」第1部 特に(3回)~(5回)を見ての大まかな感想

呼びかけ人 中塚明氏 (奈良女子大学名誉教授)
1. 日清戦争を書いた第3回の後半と第4、5回を見ての感想ですが、日清戦争が日本による朝鮮制圧に重大な歴史的位置を占める戦争だということがなにもわからないよう描かれているのが大きな特徴ですね。豊島沖の海戦からいきなり旅順の戦争に飛びます。朝鮮のすがたは日本軍の仁川上陸の場面で、雨のなか泥水のなかから、なにかを拾う子どもの姿がちょっと出てくるだけ、貧しいどうしようもない朝鮮というイメージがこのワンショットに凝縮した描き方です。
日本が朝鮮を制圧していく中身が全く描かれないのです。第5回に「閔妃殺害事件」のことがちょっと出てくる。しかし、その後に日露戦争後の義兵闘争の写真が出てくるなど、直接関連のない朝鮮の写真を入れ、結局、閔妃殺害事件も「朝鮮がロシア寄りになったから起こった事件」という印象しか残りません。
    ◇   ◇   ◇   ◇
,日本の朝鮮侵略を書かないのは原作に忠実な描き方。だから伊藤博文の日本帝国主義を代表する政治家としてのイメージがまったくドラマから浮かび上がらず、ただ、いつも臆病な「平和主義者」というイメージしかし出てこない。
伊藤をこういうふうに描くのと日本の朝鮮侵略の実態を描かないというのは、このドラマの裏表の関係でしょう。
 第5回で、伊藤博文・井上馨・陸奥宗光の三人が語り合う場面があります。
伊藤「陸奥、わしらは何のために清国といくさをしたんじゃ。外務大臣は、理由なしにいくさをしちょるんか」(あっけにとられている陸奥に代わって)、井上「ハッハッハッ、そりゃ朝鮮の独立じゃろう、のう、ハッハッハッ」という場面。
 これがこのドラマの日清戦争のオチなのです。視聴者もこれで、日清戦争を納得!なんですね。
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.アメリカ・ロシア・イギリスなどの帝国主義国としてのありようの批判が随所に出てくる。「アメリカインディアンのクリーン戦術」等。「狡いやり方」を語り、「食肉獣」としての「帝国主義国」というイメージを繰り返し、日本人のナショナリズムをかきたてるが、日本の朝鮮にやったことをなにも書かないから、日本だけが「まことに小さい国」で少数の優れた政治家、たとえば小男の小村寿太郎らが、必死でその「食肉獣」に対抗しているという状況を視聴者に印象づけている。
    ◇   ◇   ◇   ◇
.「外交には軍事力の裏付けが必要です」という陸奥宗光。これは帝国主義時代の政治家として当然の主張。しかし、これも対帝国主義国、ひいてはロシアに収斂する方向で物語られているので、日本の軍事力が、朝鮮をはじめ中国になにをしたのか、また列強に日本の軍事力をどう売り込んだのか、そういう近代日本にとって基本的なことがなにも語られない仕組みになっている。
    ◇   ◇   ◇   ◇
.原作もそうだからドラマもそうなるのは避けがたいのでしょうが、原作者の司馬はもとより、NHKのこのドラマ制作の当事者(演出から俳優諸氏まで)、あるいはNHK総体もごく一部の人を除いて、近代日本における朝鮮侵略の朝鮮にとってはもちろん、日本にとってもどんな深刻な問題を今に残しているか、という問題意識をもっていない。
だから平気で「韓国併合100年」の年に重ねてこういうドラマを放送して恥じないのだと思います。広くいえば「現代日本の姿そのもの」と言ってもよいかもしれません。こういうと身も蓋もない話になってしまいますが?
    ◇   ◇   ◇   ◇
.ただ、こういうNHKドラマ「坂の上の雲」ですが、その影響は甚大です。高文研の梅田さんに知らせてもらいましたが、2009年12月26日の朝日新聞のテレビ欄「はがき通信」にこんな中学生の投書が寄せられています。松山の市長や愛媛の教育委員会の動きとあいまって重大な注意を払っておく必要があるでしょう。その投書を紹介しておきます。

※「坂の上の雲」を毎週見ている。 内容は前に歴史の授業でやったのだが、よくわからなかったところがドラマを見てすっきりした。秋山真之が、どんどん出世していく姿が、とてもかっこいい。これから来年も、再来年も、放送が楽しみだ。司馬遼太郎の小説は、難しそうでなかなか読めないけれど、ドラマは見ているだけでいいので、その点もいいと思う。(名古屋市・中学生・14歳)
(NHK問題京都連絡会ニュースNo.15より転載)2010/03/18

NHKドラマ「坂の上の雲」放映を見て 呼びかけ人 中島 晃氏 (京都 弁護士)

、NHKは、昨年11月から12月にかけてスペシャルドラマ「坂の上の雲」を、5回にわたって放映した。この作品は、作者の司馬遼太郎自身が生前、映像化を承諾しなかったという経緯があることから、NHKがこれをドラマ化して放映することには、さまざまな批判や疑問が投げかけられてきたことは周知のとおりである。
 NHKは、しきりに、この作品について、戦争を肯定する意味で書かれたものではないと弁解しているが、今回のドラマ化にあたって、原作になかったシーンやナレーションが登場する個所がいくつか見られたものの、基本的には、日露戦争を主題として、これを肯定的に描いた原作をそのままドラマ化したものとなっている。
   ◇   ◇   ◇
、「坂の上の雲」は、最初の部分には、副主人公として正岡子規が登場するものの、子規は肺結核で死亡し、途中からは、秋山好古と真之という2人の兄弟だけが主人公となったドラマが展開することになる。しかも、この2人は、兄の好古が陸軍の騎兵隊長であり、弟の好古が海軍の参謀として活躍するという職業軍人を主人公としたドラマであることから、いかに取りつくろうとしても、この作品がミリタリズムの鼓舞する危険性をもっていることは否定しがたいところである。
 このことは、このドラマで、毎回のように阿部寛の扮する秋山好古が騎馬で草原を疾走するシーンが登場し、”当時世界最強といわれたコサック騎兵を破った”とのナレーションが流されるシーンを見れば明らかである。
     ◇   ◇   ◇   ◇ 
、NHKは、今年11月から12月にかけて4回、さらに来年11月から12月にかけて4回、合計13回にわたって、「坂の上の雲」を放映する計画をしているが、今年11月からは、いよいよ日露戦争がこのドラマの主要なテーマとなって展開することになる。
「坂の上の雲」の最大の問題は、日露戦争を祖国防衛戦争として肯定的にとらえていることである。NHKがいかに弁解しようとも、このドラマは、明治の若者たちが、大国ロシアを相手どって、祖国日本を守るためにいかに勇敢に闘ったかを主題として描いており、戦争の悲惨さや残虐さをテーマにしたものではない。
しかも、NHKは、この作品の製作意図について、「『坂の上の雲』は、国民ひとりひとりが少年のような希望をもって国の近代化に取り組み、そして存亡をかけて日露戦争を戦った「少年の国・明治」の物語」であるとしたうえで、この作品に込められたメッセージは、日本がこれから向かうべき道を考える上で大きなヒントを与えてくれるに違い」ないとしている(NHK大阪広報資料より)。
、この作品に込められたメッセージをそのまま読み解くとすると、現代日本の若者もまた、祖国日本の存亡をかけて、海外に出かけていって、銃を持って戦うべきであるということになりはしないであろうか。いいかえれば、「坂の上の雲」は、海外派兵と集団自衛権行使に向けて、国民世論を誘導するための格好の地ならしに利用される危険性を多分にはらんでいわなければならない。
 今年5月から、憲法「改正」のための国民投票法がいよいよ施行されることになる。憲法9条を改悪するために必要な法律上の手続はすでに整えられている状況のなかで、上に述べた危険性をもっている「坂の上の雲」がNHKによって放映されることの意味はきわめて深刻である。
 したがって、この問題に対して、私たち市民の側から引き続き、NHKへの批判と監視を強めていくことがいま何よりも必要となっていると考える。
(NHK問題京都連絡会ニュースNo.15より転載)2010/03/18

NHK出版「坂の上の雲 (NHKスペシャルドラマ歴史ハンドブック)」

での閔妃暗殺事件の記述について

NHKスペシャルドラマ歴史ハンドブック「坂の上の雲」の
(17ページ ひとくちmemo
)には閔妃暗殺事件について
『閔妃とは李氏朝鮮の第26代皇帝高宗の后であり、明成皇后と呼ばれる。大院君の追放後、近代化に眼を向けたのだが、旧式軍隊と大院君とのクーデターにより清国に助力を頼み、日清戦争後は、ロシアに接近していく。閔妃に不満を持つ大院君や開化勢力、日本などの諸外国に警戒され、1895年、大院君を中心とした開化派武装組織によって景福宮にて暗殺され、その遺体は武装組織により焼却された。悲しい運命に翻弄された一人でもある。』
・・・・と記述されている。

一方 09/12/20 放映のNHKドラマ「坂の上の雲」第4回「日清開戦」の中では
「王妃閔妃が三浦梧楼公使率いる日本人たちによって暗殺されたのである。」という一言のナレーションが挿入されている。
全く正反対の内容である。NHKは何を考えているのか?

このナレーションには「原作には書いてない」等のクレームがNHKによせられていて、これに対する「NHKの公式見解」は
「閔妃暗殺事件についてですが、ご指摘のとおり、この事件について、さまざまな議論があることも承知しています。当時の状況を視聴者のみなさまにわかりやすく説明するため、多くの歴史資料にあたったり、専門家の意見を伺ったりして、描きました。」(NHK視聴者コールセンター)ということのようだ。

NHK出版(日本放送出版協会)はNHKの子会社であるがこの本の責任はどこにあるかといえば極めて”あいまい”である。
奥付には /(取材、編集、文) 三猿舎 /(編集人) 河野逸人 /(発行所) 日本放送出版協会/となっている。
三猿舎 とは検索すると
(有限会社)三猿舎 東京都 千代田区 猿楽町2-8-5 電話 03-5282-7061
(ウェブサイト 未登録 Eメール 未登録)であるが
この会社の本は三猿舎(編), ××社(発行)とされているものが多く、「取材、編集、文」に力をいれているようだ。(出版関係者によるとNHK出版のこの手の本は”まる投げ”らしい)

それにしても「NHK出版」の本にこんな記述があれば「NHKの見解」と思う人が多くても不思議ではない。
NHK視聴者コールセンターの回答「閔妃暗殺事件に.....、この事件について、さまざまな議論があることも承知しています。........、多くの歴史資料にあたったり、専門家の意見を伺ったりして、描きました。」はいったい何を意味しているのか?
「さまざまな議論がある」とは何のことか?

そこで 中塚明氏(奈良女子大学名誉教授、朝鮮史研究会幹事 )に次の2点を質問してみました。

① 閔妃暗殺については現在でも「さまざまな議論がある」段階なのでしょうか。
②(根拠を提示して)[首謀者は、朝鮮人の大院君で、実行犯が禹範善]と言っている人などいるのか?

中塚明教授からの回答(概要)は次のとおりでした。
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「閔妃暗殺について....「さまざまな議論がある」段階なのか。」とのご質問にお答えします。
 日本の内外を問わず、真面目な研究者の間では、犯人が日本人であることは共通理解になっています。直接、王妃を斬ったのは「宮本竹太郎陸軍少尉」と見られますが、ほかの日本人かも? という「議論はある」かも知れません。
しかし、日本や韓国、その他外国でも、真面目に歴史を研究している人の間で、「犯人が日本人か、朝鮮人か、さまざまな議論がある」ということは決してありません。「犯人を日本人か、朝鮮人か、特定できないようにグチャグチャにしてしまう」というのは、事件直後、三浦梧楼公使が意図的にそうしようとしたことから始まっています。

 資料①は、事前には事件計画のカヤの外におかれていた京城領事の内田定槌の原敬外務次官あて私信の事件直後の第一報です。この内田も日本の外交官として、あとでは三浦などと口裏あわせをすることになますが、この資料①はまだ口裏合わせをする前のもので信憑性が高いものです。 

 資料②は、在日韓国人の研究者である金文子さんの『朝鮮王妃殺害と日本人』(高文研、2009年2月刊行)

 資料③は、東京大学名誉教授の和田春樹さんの『日露戦争』(上)(岩波書店、2009年12月刊行) 両者とも、現在、日本内外できわめて評価の高い第一級の最新の研究です。 

また、資料④として、外務省外交史料館日本外交史辞典編集委員会編の『新版 日本外交史辞典』の「閔妃事件」をコピーしておきます。

 以上のような理由から、私は④参考としたNHK出版(日本放送出版協会)の「歴史ハンドブック」の17ページの「ひとくちmemo」は「NHKによる歴史の偽造」だと思っています。
「多くの歴史資料にあたったり、専門家の意見を伺ったりして、描きました」ということですが、どんな「専門家の意見を伺った」のか、聞きたいですね。
  以上のようにお返事いたします。        忽々不一  中塚明
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資料① 
「原敬関係文書」第一巻書翰篇一 原敬文書研究会編 日本放送出版協会 1984年刊
 (なんと同じ「日本放送出版協会」!)
内田定槌(さだづち)京城日本領事→原敬外務次官あて私信(内田→原あて事件第一報)

このなかで内田定槌京城日本領事は事件当日(明治28/10/8)原敬外務次官に公文には書けない「小生が実地見聞したる事を」知らせ指示を仰いでいるのである。

曰く「新納少佐の宅には・・・・・・少佐の外に柴四朗と姓不詳壮士體の日本人1名来合せ居り、其壮士體の男は昨夜来・・・・大院君を擁して入城したる1人にて、正に其始末を物語り中なるより、小生も之を傍聴致し候に、岡本柳之助氏総指揮役となり、数多の本邦人を引連れ・・・・
右殺害せられくる婦女の1名は王妃なりとの事に有之、之を殺害したるものは我守備隊の或陸軍少尉にして、その死骸は萩原が韓人に命じ之を他に持運ばしめ直ちに焼き棄てたり・・・・
本件関係人は此後当館に於て如何取扱(うべきでしょうか)内々御高見(を賜りたい)、右は公文を以て伺出づるも甚だ妥当ならず候に付、極内々に申し上げ候
御一覧後は御火中に下され度く候。」  
<以下全文>(242-243ページ)
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 5 明治28年10月8日 〔封筒なし〕
拝啓 久く御無音に打過候處益す御壮栄奉賀候。
扨て今朝王宮内の事変に関しては已に我公使館より公報有之候事と存候得共、茲に小生が實地見聞したる事を爲御参考内々御通報申上候間、極内々にて御聞取被下度候。
扨て如此事変の起るべき噂は数日前より薄々聞込居候處、今朝五時半比砲聲に驚き起き出て戸外を眺むるに、王城の方角に當り頻りに小銃の音連発致居候に付、偵察人を派出致さんと思ひ、堀口領事館補並に萩原警部の宅に至り之を呼起さんと致候得共、両名とも不在に付、萩原と仝宿の大木書記生に両名の所在を聞糾し候處、両人とも昨夜来三浦公使の内命により大院君の邸に至り、之を擁して今朝王宮に押入りたりとの趣に付、小生も大に驚き公使館に至り、三浦公使を訪はんとしたれとも、公使は已に杉村書記官と共に参内したる後にて面會を得す、日置書記官と相携へ新納少佐の宅に至りたるに、仝所には少佐の外に柴四朗及姓不詳壮士體の日本人壱名来合せ居り、其壮士體の男は昨夜来太陰(ママ)君の宅に至り、仝君を擁して入闕したる壱人にて、正に其始末を物語り中なるより、小生も之を傍聴致候に、岡本柳之助氏惣指揮役と爲り、数多の本邦人を引連れ、孔徳里の別荘より太陰君を擁し、西大門外に於て訓練隊兵卒並に日本兵の一隊と合し、王宮正門の開くるを待て入闕したりとの事に有之候。
然るに其後萩原警部は午前十時比に帰舘し、当舘巡査中にも亦衣服に血痕を付けて帰舘する者有之、堀口も亦午後四時比に至り帰館致侯に付、昨夜来の顛末を相尋侯處、右両人共昨日夕刻より公使の内命を承け、萩原は部下の巡査数名を引ひ平服にて龍山に出張し、仝所にて仁川より来る岡本柳之助と俟合せ、数多の壮士體のものと共に麻浦なる大院君別荘に至り、夜十に時比巡査をして壁を越へ仝邸に忍び入らしめ、先つ其護衛巡検を一室に閉込め外より錠を下し其外出を差止め、夫より門を開き仝行者を誘人れたる後、本日午前四時比出発、大院君を護じ大闕に向ひ、途中にて前記の通り韓兵及日本兵と勢を合せ進行したりとの事にて、之より先き我公使館の方にては梯及斧等を當舘巡査の内両三名に渡し、大院君の一行宮門に達する前大闕の高壁を乗越へ、内より正門を開かしめたりしが、之を開くや否や其表面に俟ち合せ居りし一群の韓兵及日本兵及壮士等は時の聲を挙け門内に進入し、或は発砲し或は刀を振り廻はし、国王王妃等の寝室に向つて押寄せ、婦女両三名及男に三名を殺害したる後にて、大院君は国王の居間に入り之に面會したりしか、幸にして国王及世子宮夫婦は無事なりしも、右殺害せられくる婦女の壹名は王妃なりとの事に有之、之を殺害したるものは我守備隊の或陸軍少尉にして、其死骸は萩原が韓人に命し之を他に持運ばしめ直ちに焼き棄てたりとの趣にて、随分手荒き所業を相働き候。
其他に殺害せられたるものの内、男子は洪啓薫、宮内大臣、玄興渾なりとの事なれとも、玄は逃れたりとの説も有之候。
我兵及他の日本人等が王宮内にて行ひたる乱暴の顛末は、四五名の西洋人が終始現場にて目撃敷居、且は最早夜の引明て後に付、悉く我國人の所業を彼等に知られ居候事と存候。
右の始末に付本件の善後策は随分御困難に可有之、且つ當舘員を如此事に使用するに付ては豫て(まえもって)公使より小生へは一言の相談も無之、且つ堀口、萩原等へは決して之を小生へ口外すべからざる旨を申含め置きたる由に付、小生に於ては今朝に至る迄少しも本件に當館員の関係ある事は承知不致打過候。
付ては本件関係人は此後當館に於て如何取扱可然哉、内々御高見御漏し彼下度、右は公文を以て伺出つるも甚だ妥當ならす候に付、極内々に申上候。
御一覧後は御火中被下度候。早々
  十月八日        京城 内田定槌 
原老臺 玉案下
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資料② 朝鮮王妃殺害と日本人(高文研、2009年2月刊行)(金 文子=著)より
     朝鮮王妃殺害と日本人(金 文子著) 立ち読み

(249-259p)
1 内田領事と王妃事件
「歴史上古今未曾有の凶悪」事件と称した外交官
 今回は計らずも意外の辺に意外の事を企つる者、之れ有り。独り壮士輩のみならず、数多の良民、及び安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員、及守備隊迄を煽動して、歴史上古今未曾有の凶悪を行うに至りたるは、我帝国の為め実に残念至極なる次第に御座候 (『日本外交文書』第二八巻第一冊四二四番)
 右は、一八九五(明治ニハ)年一〇月八日、明成皇后殺害事件が起こったとき、朝鮮国京城領事館一等領事の地位にあった内田定槌(さだづち)が、一一月五日付で西園寺公望外務大臣臨時代理(以下臨時代理は略す)あてに送った機密書簡の結びの文言である。
(略)
 さて、京城領事内田定槌は、こともあろうに全権公使三浦梧楼が、「壮士輩」のみならず多数の「良民」(一般居留民を指すか)、内田の部下である「領事館員」、ソウルに駐屯する日本の軍隊である「守備隊」までも動員して、朝鮮の王宮景福宮に侵入して王后閔氏を殺害するという「歴史上古今未曾有ノ凶悪」事件に遭遇し、満腔の遺憾の念を持って孤軍奮闘した稀有な外交官であった。
 事件直後から書き送り続けられた外務次官原敬あての私信、外務省あて公信電報と機密書簡、広島地方裁判所草野検事正あての報告書、事件から四〇年後に外務省の調査に応じて語った回顧談等、内田定槌が残してくれた諸記録がなければ、本事件はさらに深い闇の中に取り残されていたことであろう。 以下、内田定槌が残した諸記録を読み解きながら、未曾有の凶悪事件に心を痛め、苦渋に満ちた報告書を書きつづけた、ひとりの日本人外交官がいたことを紹介しよう。
(略)
 * 王妃を殺害したのは「陸軍少尉」

 内田は八日付けの原あて第一報(資料①)で、王妃を殺害したのは守備隊の或る陸軍少尉である、と明確に書いている。これは、萩原、巡査たち、堀口らが王宮から戻って来た直後に、内田が直接聞き質したことに違いない。後に関係者が三浦梧楼のもとに集まり、日本の官吏と軍人の関与を隠蔽するため、「壮士」の中から下手人の名前を次々に挙げて、ことさらにうやむやに持ち込むための口裏合わせをする前の記録として信憑性が高い。
 その後、事件に関係した軍人として、公使館付武官の楠瀬中佐、京城守備隊長の馬屋原少佐と石森、高松、村井、馬来、藤戸、鯉登の六人の大尉たちが帰国を命じられ、広島憲兵隊本部に収監されて取り調べを受けるが、その取り調べ過程で上がってきた名前が宮本竹太郎少尉であった。防衛研究所に所蔵されている陸軍省の文書ファイル「明治二十八年十月起仝二十九年一月結了 朝鮮内乱事件」(以下「朝鮮内乱事件」と略記には、次のような電信記録が残されている。

宮本少尉、牧特務曹長は壮士の王妃を殺害したるとき、其場に居りたることを本人より聞知せし由、馬来大尉陳述す  (広島憲兵隊本部林中佐から陸軍省児玉次官へ、一一月一二日午後一時五分発)

予審庭にて壮士平山の自白に、宮内大臣を最初射撃したるは少尉にて後ちに切りたるは自分なりと……宮本は最も疑あり (春田憲兵司令官から児玉次官へ、一一月二二日一時三五分発)

(略)
 その後、朝鮮軍において教導中隊を母体に訓錬隊が編成されるが、宮本少尉は引き続き訓練隊教官として京城守備隊から派遣されていたことが、内田の一一月五日付け外務大臣あて報告書に書かれている。
 王妃事件における宮本少尉の行動については、憲兵司令官春田景義の児玉陸軍次官あて報告書にいくつか出てくる(「朝鮮内乱事件」No.198,No.191)。

 先ず、第十八入隊長馬屋原少佐は王妃事件前日の一〇月七日朝八時から大隊本部に各中隊長を集めて臨時秘密会議を開くが、この会議に宮本少尉が第二訓錬隊大隊長・萬範善を連れて来る。

此時第三中隊付の宮本少尉が第二訓練隊大隊長「ウハンセン」を誘ひ来りたれば大隊長は之と密談あるとて各中隊長を他に避けしめたり、暫時にして大隊長は右の「ウハンセン」と同行して我公使館ニ至り午后三時頃に皈(かえ)りたり、夫より再び各中隊長を集め、今朝命令したることは弥(いよいよ)明日実行することになりとて夫々任務に当る時間等を示したり(一一月三日付第九回報告)

 また、第三中隊長馬来大尉は、春田の取調べに対し、「策三中隊付宮本少尉は馬屋原少佐の許に付属し居りしが、同官の命に依り入城したり」と陳述している(一一月一日付第七回報告)。
 宮内大臣李耕稙を狙撃し、王妃に最初の一刀を振るって致命傷を与えたのは、京城守備隊長馬屋原少佐に付き添って、直接命令を受けて行動していた宮本竹太郎少尉であったことは、関係者の間では周知の事実であったのではなかろうか。

  内田領事の隠蔽工作

 内田が何故私信という形で原敬に報告したかについては、八日付け書簡末尾に「右は公文を以て伺出づるも甚だ妥当ならず候に付、極内々に申し上げ候。御一覧後は御火中に下され度く候。」と書いている。幸いなことに、原は火中に投じることなく、厳重に保管して後世に残してくれた。
 内田の三通目に当たる一〇月一一日付け原あて書簡では、内田自身が事件への日本人関与を隠薮する工作に積極的にかかわっていることを述べている。内田は事件直後から、三浦公使の命により、ソウル居住の外国人に対して、日本人は本事件に決して関係していないという嘘の弁明に奔走させられているが、日本人が関与していることは、多数の西洋人が目撃しており、また、王宮に侵入した日本人の中には、得意気に手柄話を吹聴するものがいたので、日本人の関与は隠しようがなかった。
 ただ幸いなことに、公使館員、領事館員、守備隊の関与については、外国人の間にもまだ判然としていないので、今なら隠蔽方法はいろいろある。三浦公使とも相談の上、公使館員、領事館員、守備隊以外で、二、三〇名程度関係者を処罰して済ませるという方向で、本日より審問に着手するので、そのようにご承知置きくださいと、内田は原に伝えている。こういう文言は、とうてい公信に残すわけにはいかなかったであろう。
 さて、内田領事が一〇月一一日より着手した審問というのは、その実、関係者の口裏あわせであった。目的は公使館員、領事館員、守備隊の関与を隠蔽することにあった。内田がこのように積極的に隠蔽工作に加担していった理由は、「若し之を隠蔽せざるときは、我国の為め由々敷大事件と相成」と考えたからである。
 さらにその後の一〇月一九日付け書簡では、はじめはこの事件が日本政府の意思に出たものかどうか、そうではないとしても、昨年(一八九四年)七月二三日の王城事変(日本軍による朝鮮王宮占領事件)のように、これを追認するのかどうか、まさか政府の内意に出たものではあるまいが、政府が本件の始末をどのように付けるのか見当がつかず、関係者をどのように処分してよいのか当惑した、と正直に告白している。

「最初は此れ果して我帝国政府の意志に出でたるものなる哉否や、若し帝国政府の意志にあらずとするも、昨年七月二十三日の王城事変に於ける如く、我政府に於て之を追認するや否や判然不致、まさか我政府の内意に出でたるものにあらざるべしと想像は致し候得共、我政府に於て本件の始末を如何に付けらるゝ杯(など)の見当が相付き不中候に付、小生に於ても関係人の処分方に当惑致居候」

 王宮占領事件を実見している内田領事には、三浦公使が起こした王妃殺害事件を日本政府が追認することは、大いに有り得ることと思われたのである。
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資料③ 
和田春樹『日露戦争』(上)(岩波書店、2009年12月刊行)より
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 (186-187頁)
殺害の目撃者たち
 惨劇をその渦中で目撃して、証言をのこしたロシア人がいる。セレジーン=サバーチンである。彼は一八八三年に上海から朝鮮に来たお雇い外国人で、最後は建築家として高宗のために働いた。王と王妃が居住する乾清宮の奥に二階建ての洋館、観文閣を一八八八年につくった。仁川の万国公園の中にある済物浦クラブの建築に関わったことも知られている。後はヴラジヴォストークの新聞『ダリョーキー・クライ』に匿名で朝鮮からの通信を送っていた。
*(280)
彼は前日王宮内を見回ったさい、衛門のあたりで朝鮮の新車兵士と日本車兵士とがにらみあい、朝鮮人兵士が何事かを叫んでいるのを聞いている。宿舎にもどると、知り合いの朝鮮人が訪ねてきて、明日の晩何事かがおこると警告したが、内容は知らされなかった。当日は、午後七時に王宮内を見回ったが、何事もなかった。一〇月八日、明け方前の午前四時、宮廷警備隊、侍衛隊の将校李ナギュンが来て、王宮は反乱した兵士に取り囲まれていると言った。しばらくして、アメリカ人の軍人ダイが出てきて、一緒に門まで行ってみようと提案した。

 彼らはまず西の迎秋門へ行った。門前には日本車の兵士が整列していた。そこから東の建春門へ行くと、そこには三〇〇人ほどの訓練隊の兵士がいた。重大な事態だと悟った彼らは宮殿(乾清宮)にとってかえし、警戒措置をとったしかし、将校たちは留守で、兵士を動かすことができなかった。明け方五時に西側で銃声がおこり、塀にはしごをかけて訓練隊の兵士が侵入してきた。歩哨は最初の銃声でみな逃げだし、のこる侍衛隊も逃げてしまった。ダイは彼らをとめようとしたが、ムダだった。セレジーン=サバーチンはこのとき、乾清宮内の国王と王妃の居室に通じる扉に群がる人々の中に、平服の日本人数人を見た。彼らは行ったり来たりして、誰かを探している風であった。
 「王妃の居室がある構内は日本人で一杯だった。二〇人から二五人ほどである。彼らは平服で、刀をもっていた。
一部の者は抜刀していた。彼らを指揮していたのは、長い刀をもった日本人だった。多分彼らの隊長であろう。一部の日本人は宮殿の隅々まで、さらには別の建物の中も大わらわで探していた。別の者は王妃の部屋に乱入し、そこにいた女官に襲いかかり、髪の毛をつかんで窓から引き落とし、地面を引きずり、何か問いただしていた。」 「私はもとの場所にとどまり、日本人が王妃の御殿の中のものすべてをひっくり返すのを見守りつづけた。二人の日本人が一人の女官をつかんで、家の中から引きずり出し、階段の下に引きずりおろした。」*(281)
 セレジーン=サバーチンはまさに王妃襲撃のまっただ中に立っていたのである。やがて日本人の行動隊員は彼をつかまえて、王妃の建物の前に連れていき、王妃がどこにいるのか教えろと迫った。英語で、「王妃はどこにいる。われわれに王妃を教えろ」と言った。それから指揮官もやってきて、「われわれは王妃を発見できていない。あんたは彼女がどこにいるか知らないか。彼女がどこにかくれているか教えてくれ」と迫った。*(282)
自分は王妃に会ったこともない、知らないと言い張って、放免されたのである。
二人のことは内田報告にも出てくる。

注:
(280) Bella Pak, op.cit.,vol.II,p.245.李泰鎮(鳥海豊訳)「東大生に語った韓国史」明石書店,2006年,96-98頁.ゲ・デ・チャガイ編『朝鮮旅行記」平凡社,1992年,340頁

(281) この証言は,Rossiia i Koreia,pp.284-289にある.オリジナルは,AVPRI,Fond Iaponskii stol, Op.493,God 1895-1896,D.6,L.73-75.引用箇所はpp.287-288.またサレージン=サバーチンがSankt-Peterburgskie vedomosti,4/16 May 1896 に載せた通信も参考にした.これはKoreia glazami rossiian,Moscow,2008,pp.14-22に収録されている.

(282)  Rossiia i Koreia,p.288.
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資料④
編者 外務省外交史資料館日本外交史編纂委員会 「新版 日本外交史辞典」1992/5/20発行 山川出版
 閔妃事件(びんひじけん) より  
1895年(明治28)10月8日,朝鮮高宗皇后閔妃(1851~95年)が殺害された事件。「乙未の変」とも呼ばれる。 95年9月1日、三浦梧楼中将(予備役)が井上馨公使に代って駐朝鮮公使として赴任した。当時朝鮮国においてロシアと結ぶ閔妃一族の勢力が強くなり,日本軍将校の指導した訓練隊(政府直属の軍隊)を解散してアメリカ人教官指導の侍衛隊(王室直属)をこれに代えて親日勢力を一掃しようとする動きがみられた。10月3日,三浦公使は杉村濬書記官、楠瀬幸彦公使館付武官、岡本柳之助朝鮮国軍部兼営内府願問官らと協議して、閔妃の政敵で京城郊外孔徳里に蟄居する大院君を擁して閔妃を倒し親日政権樹立を計画した。10月7日、朝鮮国政府から「訓練隊解散決定と8日武装解除」の通告を受けるや、8日早朝,上記計画を決行した。訓練隊,日本軍守守備隊、日本警察官,日本人新聞記者・壮士らを動員,大院君を擁して景福官に入り,王宮護衛の侍衛隊を撃破し、閔妃を殺害、その死体を火葬した。・・・・・・・・・
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資料②「朝鮮王妃殺害と日本人」からさらに引用する。
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3 内田領事の公信報告書            (259p)

 * 外務大臣・西園寺公望あて報告

 内田領事は、小村寿太郎政務局長のソウル到着(一〇月一五日)により、日本政府が「公明正大」に対処すると素朴に理解した。そして小村と打ち合わせの上、事件関係者に退韓命令を発令し、外務省あてに正式な報告書を提出した。一一月五日付、西園寺外務大臣あて機密第三六号「明治二十八年十月ハ日王城事変ノ顛末ニ付具報」は、『日本外交文書』にも収録されており、本事件を理解する上での基本史料として、たびたび引用されてきた。
 この報告書は、「小官の実地見聞したること及び職務上取り計らいたること」を開陳具報するとして、「在朝鮮国京城日本領事館」の罫紙二〇枚に毛筆細字でびっしり書かれたものである。そして、末尾は本章の冒頭で紹介したとおり、「歴史上古今未曾有の凶悪を行うに至りたるは、我帝国の為め実に残念至極なる次第に御座候」という言葉で結ばれている。
 先に紹介した、王妃事件前夜から当日にかけての内田自身の体験談は、一〇月ハ日付け原あて私信によったが、この報告書にもほぼ同じ内容が書かれている。本国政府が本事件に対する対応を誤らないように、できるだけ正確な情報を伝えなければならないという、内田の使命感がよく伝わってくる。
 但し、内田が何もかも正直に書いたと考えるのは、単純に過ぎよう。この報告書には、事件直後に書かれた原あて私信と比べると、あえて曖昧に記述した部分があること、また私信にはなかった三浦公使と大院君の共謀説が説かれていることが注目される。
 前者の例を挙げれば、八日朝、内田が砲声で飛び起きた時刻を、私信では「五時半比[頃]」と具体的に時刻を書いているにもかかわらず、報告書では、たんに「払暁」としている。事件の勃発した時刻は重要である。とくにこの事件は、多くの外国人に日本人の関与を目撃されたために国際問題化して日本政府を慌てさせたのであるから、より正確さが求められる。それゆえに、逆にあえて曖昧に報告している、と見なければならない。
 また、王妃を殺害したものについて、前者では「我守備隊ノ或陸軍少尉」と明言しているにもかかわらず、後者では、「王妃は我陸軍士官の手にて斬り殺されたりと云う者あり。又夕田中賢道こそ其の下手人なりと云う者あり。横尾、境両巡査も何人かを殺傷せしやの疑あり。高橋源次[寺崎泰吉」も亦慥かに或る婦人を殺害せり」とぼかした表現になっている。
 これらは、内田がこの「公文」報告書を書くにあたって、微妙な配慮を加えていることを推測させる。微妙な配慮とは、原あて私信で明言しているように、出来る限り日本の官吏と軍人の関与を隠蔽するために、三浦公使とも相談して一〇月一一日より着手した関係者間の口裏合わせとの矛盾を避けることであろう。
 三浦公使と大院君の共謀説も、同様の配慮のもとに創作されたと見るべきではなかろうか。
 内田は「三浦公使の直話、堀口領事館補、萩原警部並に今回の事件に間係せる当館巡査及其他確かなる筋より探聞したる所によれば、抑も今回の事変は全く大院君及三浦公使の計画に基きたるもの」であると言い切り、三浦公使が岡本柳之助を通じて予め大院君の内意を確認し、「大院君は人闕の後決して政治に容喙せざること、李埈鎔は直ちに日本へ留学せしむること、及其他重要なる条件をば認めたる誓書を大院君より受取らしめ置きたり」と書いている。
 しかしながら、事件当夜、岡本柳之助か通訳の鈴本順見をともなって大院君の居室へ入ってから「凡そ二、三時間も評議の末、弥弥出発することに決し」たとも書いている。また四〇年後に外務省の調査に応じて語った時には、「愈々今夜決行すると云う時になって大院君が躊躇し出した。京城郊外の大院君の邸へ岡本や堀ロ君が夜中に行って促そうとしたが、大院君は仲々出て来ない。愚図々々して居ると夜が明け始めたので、多勢の日本人の壮士等も一緒になって無理矢理に大院君を引っ張り出し、真っ先きに守り立てゝ王城に向った」と言っている。
 内田が本当に三浦公使と大院君の共謀説を信じていたとは思えない。
 一年ニケ月前の王宮占領作戦時に大鳥公使に呼ばれて大院君引き出しにかかわり、今回と同様に通訳鈴本順見を介しての岡本柳之助と大院君のやりとりを見ていた北川吉三郎が、大院君が岡木柳之助らに言った言葉を伝えている。

元来君等は外国人なり、我朝鮮の王室に関して彼是容喙すべきものに非ず、また仮令い相談を受けたればとて、夫れに答ふべき筋合のものにあらず (*3)

 今回もきっと大院君は「元来君等は外国人なり、我朝鮮の王室に関して彼是容喙すべきものに非ず」と一喝したのではないだろうか。岡本柳之助は抜刀した日本人たちが大院君の出邸を何度も督促してくるのを一方では叱り付けながら、このままでは命が危いことを大院君に繰り返し説かなかったか。 大院君は止むを得ず引っ張り出されるまでに、のらりくらりとずいぶん時間稼ぎをし、本事件を太陽の光のもとにさらけ出し、多くの目撃者をつくり出した。
 三浦公使と大院君の共謀説は、成り立つはずもないことであるが、この『日本外交文書』に収録された明治ニ八年一一月五日付け内田報告を有力な根拠として、日本の研究者の多くがいまだに共謀説に囚われているのが現状である。

 * 西国寺の叱責と内田の反論

 内田領事の報告書はこれだけではない。広島地方裁判所の嘱託を受けソウルにおける関係者の取り調べにあたっていた内田は、一一月一二日付けで広島地方裁判所草野検事正あてに、一一月五日付け西園寺あてとほぼ同様の内容の報告書を提出した。

 これに対し、西園寺は一一月二二日に次のように電訓して内田を叱責した。
広島地方裁判所に差出したる書類の写閲覧せり、本件に関し貴官は左の事に注意すべし、貴官今回の事件に付裁判所の嘱託を受け取消を為すは、領事の職務に属するものにして司法所属の官吏と自ら区別あり、就ひては去十三日電訓の主旨を篤と翫味し、領事は其所属長官たる外務人臣に向って報告する総ての秘密事件を他に対し云ふを為ざるものと了解ありたし (外務省外交史料館蔵「韓国王妃殺害一件」第三巻所収、外務省電送第八七四号)

 今回の事件について、貴官(内田)が裁判所の嘱託を受けて関係者を取り調べるのは、領事としての職務であり、司法官吏とは自ずから区別がある。領事はその所属長官である外務大臣に報告するすべての秘密事件を他に対して言ってはならないものと了解されたい、と西国寺は内田に言ったのだ。 しかし、内田はすぐさまこう打ち返した。

本日御電訓の趣委細敬承せり、然るに本月十二日附を以て草野検事正へ通報したることは、皆同検事正よりの間合に応じて返答したるものにして、苟くも我政府に於て本件を公明正大に処分せらるゝ御趣意なる以上は、之を通報する方が御主意に協ふことと信じたり、去れども若し右通報の中裁判所に知らしめて不都合なる点あらは、如何様にも修正すべきにより、至急其廉々を明細に訓示せられたし (同右、外務省電受第一二七六号)

 草野検事正へ通報したことは、我が政府において本件を公明正大に処分する趣意である以上、これを通報することがその趣意にかなうと信じたからである。もし、通報中に裁判所に知らせて不都合な点があるならば、いかようにも修正するので、至急明細に訓示されたい、と内田は西園寺に反論したのである。
 三〇歳の駆け出し外交官が、外務大臣代理であるばかりでなく、天皇の近親である西園寺公望に向かつて、臆することなく自己の所信を表明したのは立派と言わねばならない。
 内田はこれ以前に、三浦梧楼ともやりあっている。三浦は小村寿太郎政務局長の到着前に関係者の一部をソウルから退去させたかったので、責任はすべて自分が取るから即刻退韓命令を出せと内田に迫ったことがあった。これに対し内田は、次のように述べて拒絶した。

小官が職務上行いたることに関しては、小官自ら甘んじて其責任を負うべきに付き、必ずしも閣下を煩わすに及ばず。唯本国政府の訓令を待たず、かくの如き処分を決行致し候ては、責任の何人に帰するを問わず、我が国の外交上快復すべからざる不都合を来すやの懸念なきにあらず。依って小官は兎に角其筋の訓令を俟つの外なし。而して若し此れが為め何等の不都合を来したらば、その責任は小官自ら負担すべし (前掲「明治二十八年十月八日王城事変ノ顛末ニ付具報」)

 維新の功臣、陸軍中将の三浦梧楼も、内田の正論の前に引き下がるほかなかったであろう。
 しかしながら、今回の西園寺の叱責に関しては、本国の「公明正大」という建前をまともに受け止めていた内田は、内心愕然としたことであろう。内田は、翌年三月一四日付け原あて私信で、事件落着次第転任したいという希望を書いた。これは後に、面倒見のいい原によってかなえられるが、もうしばらく、内田領事の頑張りは続けられねばならなかった。

 * 王妃殺害現場の図と天皇への報告

 外務省外交史料館に、王妃の殺害された場所を詳細に記した「景福宮之図(現王城)」がある(「韓国王妃殺害事件一件」第二巻所収、本書巻頭のカラー図版参照)。
 これは内田領事が、事件後現場を実際に確認した上で作成したものである。
 内田はこの地図を「機密第五十一号」公信書簡に添付して外務省の原あてに送った。いわゆる漢字カタカナ交じりの「候文」で書かれたものであるが、分かりやすく漢字ひらがなの読み下し文に直し、全文を掲げよう。

機密五十一号

 御参考の為、別紙景福官即ち現王居の見取図一葉、進達に及び候間、御査収相成り度し。右は或る本邦人の作りたる見取図に基づき、尚、小官が実地の見聞により修正を加え調整したるものにして、固より精確を保し難く候へども、概略に於いては、格別の誤謬これ無きものと相信じ候。図中に示せる乾清宮は、十月八日前後に於ける国王陛下初め王族方の御居殿にして、長安堂は陛下、坤寧閤は王妃陛下の御居間なり。また坤寧閤の裏手に当り東西に横たわれる一棟は、王太子及び王太子妃の御居間なり。而して該事変の時、王后陛下は図中に示せる(1)の所より(2)の所に引き出され、此処にて殺害に遭われたる後、屍骸は一旦(3)の室に持込み、その後夾門より持出し、(4)点に於いて焼き棄てられたる由にて、十一月二十二日小官が王城に入りたるとき、燃残りたる薪類、尚(4)点に散在し、その傍らには何者をか埋めたる如き形跡歴然たるを認め候。右具報に及び候。 敬具
明治廿八年十二月二十一日 在京城 一等領事内田定槌 印
外務次官 原敬殿

 この書簡欄外には、これが翌年一月四日に外務省に届き、政務局が主管して外務次宮原敬、外務大臣西園寺公望の閲覧を経て、一月一一日に侍従長を経て天皇に上奏されたことを示す書き込み及び押印がある。
 さて、この内田報告によると、王妃は王宮見取図上の(1)の地点で襲われ、(2)の地点に引き出されて殺害され、屍骸はいったん(3)玉壷楼に持ち込まれた後、夾門から持ち出されて(4)鹿山で焼かれ、その付近に埋められたことになる。
 見取図にはその地点が明示されているだけでなく、暗殺団の光化門よりの進入路、王妃の亡骸の運ばれた道筋、王宮守備の侍衛隊兵卒の整列していたところ、侍衛隊指揮官アメリカ人ダイが立っていたところ等が記されている(全体見取り図右端の注記)。他に見られない記録と言わねばならない。
 しかも、内田は、一一月二二日に王宮に入り、現地を確認して書いたと言っている。内田は、領事裁判所判事として関係者を取り調べ、退韓命令を発令する立場にあった。取調べの過程で得た情報を現地で確認して本国に報告したものであるから、信憑性は極めて高い。
 当然「誰が」ということも分かっていたはずである。しかし、この報告には「誰が」という部分が完全に省かれている。あるいは、「誰が」という部分は、別に報告されたのかもしれない。
 なお、王妃の亡骸の始末について、内田はその後さらに詳しい情報を得たようだ。後年(一九三八年)外務省の調査に応じて、次のように語っている。

其死骸は王城内の井戸へ投じたが、それでは直ぐ罪跡を発見されると気が付いたので、又それを引上げて王城内の松原で石油を掛けて焼いた。それでも未だ気がかりなので今度は池の中へ放り込んだが、仲々沈まないので又其の翌日かに池から取出して松原の中に埋めた。そう云う死骸の始末に付ては関係人から後で聞いたのだが、兎に角私は非常に困った。 (*4)

 王妃殺害事件が狂気に満ちた長い惨劇であったことを、内田定槌はこのように克明に記録に留めたのである。

 * 機密第五十三号と広島裁判

 「王妃殺害現場の図」を送ってからまもなく、内田は、十二月二六日付けで、原敬あてに「十月八日王城事変ニ関スル犯罪人処分方ニ付朝鮮政府部内ノ意向」と題した「機密第五十三号」公信書簡で、次のように書き、朝鮮政府が広島裁判において大院君が首謀者と断定されることを望んでいると伝えた。

現政府当路者中二三の有力者より内々聞込候処によれば、本件に関し三浦子爵岡本柳之助及其他の日本人を首謀者又は下手人として刑罰を受けしむるは、如何にも気の毒なる次第に付、目下取調中なる尹錫萬若くは朴某を以て王妃殺害の下手人と為し、之を死刑に処し、大院君を以て首謀者と為し、其処分方は勅裁に依ることとし、日本人中三浦子爵初め其他関係人は皆な之を従犯とし、可成其処罰方を軽減する様致度ものなりとの意見に御座候、然るに大院君には広島に於ける予審の結果上、或は自分が本件の首謀者なりと決定せらるるに至るべきことを痛く心配し居らるる趣に御座候処、内閣員は全く之と反し前期の通り仝君が首謀者なりと決定せらるるを希望致居候

 この書簡は一八九六(明治二九)年一月四日に外務省に届いた。おそらく、日本政府はこの報告を得て、一月一四日の軍法会議において全員無罪につづき、一月二〇日の広島予審全員「免訴」に踏み切ったのであろう。これが内田の本意であったかどうかは不明である。

4 高宗のロシア公使館逃避後の再調査

 * 朝鮮政府による調査報告の発表をめぐる攻防

 内田はまた、国王高宗がロシア公使館に逃避(二月一一日)の後、国王の意を受けて朝鮮の新政府が行った王妃の死に関する再調査の結果が、ソウルで刊行されていた英文雑誌に掲載されたとき、それを入手して日本語訳をつけ、四月一三日付けで原敬あてに送った。
 それは四月二一日に外務省に届き、病気療養から外務大臣に復帰した陸奥宗光の検閲を経て、五月一五日付けで陸奥から内閣総理大臣伊藤博文に報告され、さらに五月一九日付けで伊藤から天皇に報告されている。
 内田訳は、領事館の罫紙二四枚に毛筆で細かく書かれたもので、公信第九八号「昨年十月八日事変の公報ト称スル書類進達ノ件」に添付して送られ、外交史料館に所蔵されている。また、これを天皇の「御覧ニ供ス」ために、外務省で美しく毛筆楷書で清書したものが、国立公文書館に所蔵されている(公文雑纂・明治二十九年・第十一巻、アジ歴A04010025000)。
 それによると、国王高宗はロシア公使館に避難後、王后閔氏の死に関し「完全にして且つ公平なる調査をなすべし」との命令を下し、この犯罪に関係した朝鮮人を逮捕し審問をおこなわせた。また、この取り調べを監督するために、米国人グレートハウスを法部顧問官として雇用し、証人の取り調べ、公文書の調査の権限をあたえた。
 高宗および朝鮮政府はこの調査結果を官報で発表することに決め、原稿を官報局に交付した。
 この情報をつかんだ小村寿太郎公使(一八九五年一〇月一七日、三浦梧楼の後任として駐韓弁理公使に就任)は、四月二五日、外部大臣李完用に面会し、「斯る報告を公然官報に掲載するに於ては本官は決して過黙に附せず。断然たる処置を為さざることを得ざる事」と恫喝した。怯んだ李完用は、官報局から原稿を引き上げた。
 官報発表をあきらめた朝鮮政府は、独立新聞社主徐載弼に内命して、出阪人と出版所を記載しないで、『開国五百四年八月事変報告書』(八月というのは、朝鮮では旧暦が使用されていたため)という朝鮮語の小冊子三百部を出版させた。また、ソウルで刊行されていた英文雑誌"THE KOREAN REPOSITORY”の一八九六年三月号に'OFFICIAL REPORT CONCERNING THE ATTACK ON THE ROYALPALACE’ (「王宮事変に関する公報」)という記事を掲載させた。
 これらは、いずれも小村の五月二二日付け陸奥外務大臣あて報告「十月事変報告書刊行ノ件」とともに「韓国王妃殺害事件一件」巻二に収録されている。
(アジ歴A04010025000ー引用者)
 “THE KOREAN REPOSITORY"一八九六年三月号の社説「王妃ノ死ニ関スル再調査」には、本報告書の内容が、同誌一月号に朝鮮の官報より転載した、前内閣のもとでおこなわれた裁判の判決書と異なっているが、本報告書こそ信を置くに足るものであると述べられている。
 高宗が、日本の軍事的圧力のもとに作られた前内閣の日本に迎合する調査結果を否定し、日本の蛮行を欧米諸国に訴えようとしたことは明らかであろう。

 * 朝鮮政府報告書に描写された惨劇

 さて、明治天皇にも報告された、朝鮮新政府の「王宮事変に関する公報」内田訳から、景福宮の奥深く国王一家の寝殿となっていた乾清宮のなかで、どのような惨劇が繰り広げられたか、核心部分を引用してみよう。

日本人は両陛下の御せられたる宮殿に達するや、其内若干は士官の指揮に由り直に之を取囲み、国王陛下の御居間より僅々数歩を離ると処に配置せられ、営庭の諸門を護り、以て王后陛下を捜索して之を弑し奉らんとする兇暴を企て、彼等と共に王城に侵人せる壮士其他の日本人を保護せり。其人数は凡そ三十人許にして、一名の巨魁之を引率し、抜剣の儘国王陛下の御居間に乱入し、後宮を捜索して手当次第に宮女を引っ捕え其頭髪を攫み、或は之を引ずり回し、或は之を打ち擲りながら、王后陛下の御所在を究問せり。右は数多の人々が目撃せし所にして、当時侍衛隊に関係せし「サバチン」氏も亦之を実見せり。同氏は暫時御居殿の庭園にありて、日本士官が同所に於て日本兵を指揮し且つ宮女の虐持せられし事実を傍観し居りしかば、同氏も亦たびたび日本人より王后の所在を尋ねられたるも、同氏は之を告げることが無かったので、これまたその脅迫に遭い生命も危険になった。氏の言うところによれば、日本の士官は現に庭園内に在って、壮士等の暴行は一々之を承知していたのみならず、壮士等が殺戮を行いつつあった間に、その部下の兵が営庭を囲み、その諸門を護衛していたのを承知していたのは明白である。かくて壮士等は一々諸室を捜索したる後、王后陛下が或る一隅の室内に匿れ居り給ひしを発見し、直ちに之を捉え、その携えたる剣を以て之を斬り斃したり。
この時王后陛下には重傷を受け給ひたるも、直ちに崩御せられたるや否や文明ならず。去れども陛下の玉体は、戸板に載せ絹布を以て之を纏ひ庭園に取り出したりしが、間もなく日本壮士の指図により更に付近の小林中に持ち運び、之に薪を積み石油を注ぎ火を放って之を焼き棄てたり。王后陛下の御遺骸は、殆んど全く之を焼失し、その残りたるは僅か数本の骨のみとなり、又だ陛下を殺戮するの畏るべき任務を命ぜられたる壮士輩は、その命ぜられたる任務を全うしたるや否やを慥むる為め、数名の宮女を捉え陛下の御遺骸のもとに連れ行き、其果して陛下なるや否やを訊問し、又だ日本人及び之を補助せし朝鮮人の逆賊等は、陛下を取逃さゞる様十分の注意を施したるの事実は、証憑によって明瞭なり (*5)

 一八九六年一月一一日に「王妃殺害現場の図」の報告を受けていた明治天皇が、五月一九日にさらにこのような調査報告書訳文を見て、果たしてどのように思ったか。もしも外国の軍隊が自らの皇居に侵入して皇后を殺害したならば、と想像したであろうか。

5 明治天皇と三浦梧楼

 ※ 天皇の使い

 この問題に関し、三浦梧楼の『観樹将軍回顧録』(政教社、一九二五年、大空社から一九八八年に影印版で復刻)には、興味深い天皇の言葉が記録されている。
 予審免訴となり釈放されて東京へ帰還した三浦のもとに、天皇から米田侍従が遣わされた。三浦は次のように語る(『観樹将軍回顧録』三四五~三四七頁)。

 東京に着いた其晩、早速米田侍従が訪ねて来た。我輩は先づ、「お上には大変御心配遊ばしたことであろう。誠に相済まぬことであった。」と挨拶すると、
「イヤお上はアノ事件をお耳に入れた時、遣る時には遣るナと云ふお言葉であった。」と答へ、更に、
「今夜お訪ねしたのは、外でもない。実はアレが煮ても焼いても食へぬ大院君を、ベトベトにして使って行ったが。コレには何か特約でもあったことか、ソレを聞いて来いと申すことで。ソレでお訪ねした。」 とのことである。

 米田侍従は「煮ても焼いても食へぬ大院君」を三浦が「ベトベトにして使って」いたが、これには何か特別な約束でもあったのか聞いてこい、という天皇の言葉を三浦梧楼に伝えたのである。
 これに対し、三浦は次のように答えたと言っている。

 「イヤ大院君とは約束も何もない。最初井上から大院君と王妃とは、決して政治上に喙を容れてはならぬと云ふことにして、書付まで取って居る。然るに王妃は何時の間にか以前に倍して、政治上に関係するに反し、大院君は相変らず押込隠居同然の有様であった。ソレでアノ事件の起った朝、自分は大院君に会って、元々斯う云ふ関係になって居るから、殿下は政治上に容喙することはなりませんぞと戒めた。大院君も李家を救うて呉れると云ふことなら、何よりも有り難い。決して政治上に関係せんから、安心して呉れと云ふことであった。一言半句も理屈はない。唯自分の言ひなり次第になった訳で、約束も何もない。唯井上の折りの書付が反古になったのを、自分か再び活かしたまでの事だ。此辺の事情を能く申上げて呉れ。」

* 三浦が自ら認めた「つくり話」

 三浦梧楼は天皇に「大院君とは約束も何もない」と答えた。これは、きっと真実であろう。つまり、広島地方裁判所予審判事に対し、三浦梧楼をはじめ、岡本柳之助、杉村濬らがロを揃えて申し立てた「要項四」問題がつくり話であることを、三浦梧楼みずからが認めているのである。
 「要項四」とは、三浦梧楼が大院君の王宮入りを援助するにあたり、大院君からあらかじめとっておいたと称する四ケ条の誓約書(第一、大院君は宮中事務を執り、国政には関与しない。第二、金弘集、魚允中、金允植を要路に立てる。第三、李載冤(大院君の子)を宮内大臣に金宗漢を同協弁にする。第四、李埈鎔(大院君の孫)を日本に留学させる。)のことである。
 この「要項四」の写しと称するものが、国会図書館憲政資料室の「三浦梧楼関係文書」(書類の部123)と「星亨関係文書」(書類の部144)に存在する。どちらも「在朝鮮国日本公使館」名入りの罫紙に毛筆で書かれたものであるが、字体は別人のものである。「三浦文書」の方には、別紙(同罫紙)に書かれた大院君の署名らしきものも二種類あるが、もちろん本物ではない。三浦梧楼らがこのような謀議をしていたことの証拠にはなっても、大院君がそれに応じた証拠には全くならない。
 「イヤ大院君とは約束も何もない」と三浦梧楼が米田侍従に答えた。しかも、何も約束がないにもかかわらず、大院君が「自分の言ひなり次第になった」と言った。これは、三浦得意の「大言壮語」を越えて、「大法螺」と言わねばならない。
 しかし、三浦の回答よりももっと注目すべきことは、天皇が王妃事件を初めて知った時の発言である。米田侍従によると、「遣る時には遣るナ」と言った、という。
 ところが不思議なことに、同書が中央公論社から現代仮名遣いに改めて文庫本として出版された時、何故か天皇の言葉を含む二行、「イヤお上は」から「更に、」までが削除されていた。印刷ミスとは考えられず、意図的に天皇の発言「遣る時には遣るナ」が隠されたようだ。(中公文庫『観樹将軍回顧録』二八九頁、一九八八年)
 『観樹将軍回顧録』は、同じく三浦梧楼の『観樹将軍縦横談』の一部とともに、一九八一年にも芙蓉書房から『明治反骨中将一代記』という書名で出版されたことがあるが、この時には、このような削除は行われていない。中央公論社による原本の意図的改竄は出版倫理上許されない行為である。
                 
 明成皇后殺害事件に際し、京城領事内田定槌の書き残した多数の公私信をたどり、内田領事が「歴史上古今未曾有の凶悪」事件に強い遺憾の念を抱きつつも、「日本の名誉」を守るため、官吏と軍隊の関与を隠蔽する工作に積極的に従事していく姿を見てきた。
 『日本外交文書』に収録されている内田領事の一一月五日付け外務大臣あて報告書で述べられている三浦梧楼と大院君の共謀説も、三浦公使を中心に内田領事も協力しつつ行われた、関係者の口裏合わせとの整合性を図る過程で創作されたものである。
 しかし、王妃事件をめぐる日本側記録の多くが虚実取り混ぜたものであるなかで、内田が事件直後から書き送り続けた原敬外務次官あて私信の史料価値はきわめて高いことを述べた。
 王妃事件の最終処理のため、原敬は自ら在朝鮮国特命全権公使となり、一八九六年六月にソウルに赴任する。その後、内田定槌には賜暇帰朝が許可され、七月一三日にソウルを発ち、二四日に東京に帰り着いた。そして九月、希望どおりニューヨーク在勤を命じられ、一〇月に東京を発ち、一一月三日にニューヨークに着任した。


(1) 以上の略歴は、内田家に残された内田定槌の日記を学界に紹介された早島瑛の論考に依った(「内田定槌日誌」『史学雑誌』ハハのハ、一九七九年八月)。早島は第一次世界大戦後のドイツの対露単独講和に、スウェーデン公使として内田定槌が重要な役割を果たしたことに注目し、大正三年から七年までの内田の日記中、この問題に関わる部分を抜粋して紹介した。なお、内田家に残された日記中に、上海、京城、ニューヨーク、ストックホルム初期のものはない、とのことである。
(2) 「在韓国帝国公使館及各領事館警察官の配置」(『外務省警察史』第三巻、復刻版四頁)。本書の原本は外務省外交資料館所蔵の草稿であり、一九九六年に不二出版から、原本を縮小して四頁分を一頁とする方式で復刻された。復刻版四頁に掲載されている当該史料によると、明治二七年回十二月三一日調べで京城領事館には巡査十二名が、明治二九年度増加定員として同五〇名が配置されている。
(3) 藤村徳一編『居留民之昔物語』所収「入京当日の困惑」(朝鮮ニ昔事務所、京城、一九二七年)  北川吉三郎は、一ハ八七(明治二〇)年一五歳のときに、小川実の斡旋で東京の朝鮮公使館の給仕 になった。その時、公使館の日本語通訳官は安駉寿であったという。その後、朝鮮国外部顧問になった小川実に呼ばれて、一ハ八九年一〇月からソウルに移住した。一八九三年一〇月末には、公使館付 武官渡辺鉄太郎大尉と大鳥公使の依頼により、「東学党」の内情偵察の為め、売薬商人に化けて全羅道金堤付近に行ったこともあった。朝鮮語がよくできたようである。
(4) 外務省調査部第一課編「内田定槌氏述 在勤各地ニ於ケル主要事件ノ回顧」(『近代外交回顧録』第一巻所収、ゆまに書房、二〇〇〇年)
(5) 西園寺の内田に対する叱責と内田の反論も、「景福吉之図(現王城)」も「王宮事変に閲する公報」の内田訳も、外交史料館の文書ファイル「韓国王妃殺害一件」には残されているが、『日本外交文書』には収録されていない。このファイルの存在はつとに知られ、誰でも閲覧は可能であったが、今まで十分研究されたとは言えない。文書ファイルから、王妃殺害現場を示した地図を発見したと、ソウル大学の李泰鎭教授が新聞発表したのは、二〇〇五年一月のことである(『朝鮮日報』二〇〇五年一月一三日)。当時はまだ、目撃者証言や日本人の手記などをもとに、屍骸がいったん持ち込まれたところ、「玉壷楼」が遭難の地と考えられ、その付近に「明成皇后遭難之地碑」が建てられていたが、それを見直す必要を指摘したのである。
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追加資料 閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母―角田房子/著
(287-288p)
 これから私は閔妃が殺害されるまでの経過を書き進めてゆくのだが、そこには実に多くの”不明の点〃がある。九十余年前の事件だから資料が乏しいという理由ではない。杉村濬、安達謙蔵、小早川秀雄をはじめ事件に直接かかわった多くの人々の手記があり、また三浦梧楼から外務大臣臨時代理西園寺公望あての多数の電報もあるのだが、みなそれぞれの立場や思惑によって書かれているので、一つの事実についても、日時をはじめ内容にも大きな違いのあることが多い。
 事件から十数年、あるいは数十年後に書かれた関係者の「回想」にも、明らかに事実とは違う記述がある。後年になってもなお閔妃暗殺を「愛国心による立派な行為」であったと記録したい心情もあり、今さら真相を暴露して自分をも含む関係者を傷つける必要はないという考え方によるものもある。また事件当時の”偽装〃の一部を生涯信じ続けた人も、少数ながらいたらしい。
 閔妃が暗殺された直後から、ロシア、アメリカなどソウル駐在の外交団はいっせいに日本攻撃の火の手をあげ、一時は国際的大事件に発展する様相を呈したため、日本政府は三浦公使はじめ事件関係者全員を帰国させて、法廷で裁いた。その広島地方裁判所の記録もあるのだが、容疑者の陳述は事前に口裏を合わせてあり、裁く側も、”日本の立場〃への配慮から、事件の核心に迫ろうとする態度は弱く、要するにあてにはならない。
 さらに朝鮮側にも、”乙未事変”と呼ばれる閔妃暗殺について多くの調査資料がある。事件当時の金弘集内閣は日本の勢力下にあり、事件の調査など思いもよらなかったが、翌一八九六年二月、王が王宮を脱出してロシア公使館に移った後の新内閣が調査に着手した。これは厳正な態度で臨んでいるが、治外法権のため日本人関係者を調べる権限がなかったという難点がある。この年五月に法部協弁(法務次官)兼高等裁判所判事であった権在衡が関妃暗殺の記録をまとめて、法部大臣兼高等裁判所裁判長である李範晋に提出した。
 のち権在衡の記録は、三浦梧楼はじめ関係者全員を裁いた広島の裁判記録と共に、朝鮮の民間記録『大東紀年』『韓国痛史』『韓国季年史』などに影響を与えた。
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 ニュースで追う明治日本発掘 (5)

資料⑤
日本外交文書 明治 第28巻1冊365番」(外務省)498頁 
日韓外交資料(5)韓国王妃殺害事件」(原書房)80頁

韓国駐剳三浦公使より西園寺外務大臣臨時代理宛
京城守備兵召還方稟申に付き答弁竝邦人の事変に加入事実報告の件
電信明治二十八年十月十日 午前十時一五分発
             午後0時 五分着
  西園寺大臣         三浦 公使
貴電落手せり我守備隊は素より騒擾鎮撫の為め出張したるものなれば表面之れを援け之を敵とすへき道理なきも其内情は訓練隊に厚つく該隊をして其目的を達せしむることに援助を与へたるは事実免れさる所なり 因りて外邦の非難多ければ真に警備の任務を尽したるや否やの事実を取調を名として召還を命せらるゝことは適当の処置にして且つ政略上得策ならんと存じたる故なり 又大院君の依頼を受け同行して王宮に赴きたる日本人十五六人あり右は固より過激のことはすべて朝鮮人にて之を行はしめ日本人は唯た其の声援を為すまてにて手を下さゝる約束なりしも実際に臨んで朝鮮人躊躇して其働き充分ならざりし故時機を失はんことを恐れ日本人の中にて手を下せし者ありと聞けり 尤も右等の事実は内外人に対し厳重に秘密に致し置きたれども其場に朝鮮入居りし由なれは漏れ聞きしことなきを防く可からす其他の日本人は事変を聞き見物方々刀若くは仕込杖等を携へ駆けつけたる弥次馬連にて其数二三十名もあるへし 右等の事実は一昨日の電報にて申進めたる如く本官始ょり黙視したる事なれは然る可く御推量相成たし 尚ほ守備隊竝に王宮に進入したる日本人の処分につき何分の訓令を仰きたし 尤も朝鮮政府よりは日本人は殺害等乱暴の挙動は一つも無かりしとの証明書を取り置きたり…又大院君より…も其随行の朝鮮人に日本服を着せしめたるは朝鮮人は常に日本人を恐るゝ故へ故意に多数の偽日本人を作りたりと云はしめ政府其他の人々云合せたり 此二件は外国人に対し水掛論の辞柄となす考へなり 
(辞柄=口実)
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資料⑥
原田敬一 「日清戦争」
 日清戦争がアジアにもたらしたもの  エピローグ
(286p)
・・・・・・・ 一八九五年秋、台湾征服のための戦争を続けている頃、朝鮮国では日本による前代未聞の大事件が起きていた。十月ハ日、日本公使三浦梧楼が兵士・警官・壮士を使い、王宮を襲って、王妃の閔妃を惨殺し、親露派を一掃したのである。長崎で裁判にかけられた関係者のうち、杉村濬一等外務書記官は、事件の「手段遥に昨年七月の挙より穏和なり」とし、王宮を攻撃占領した「七月二十三日戦争」よりましだ、と言い放った。同時に「政府は既に昨年の挙を是認したる已上は、後任公使がその例に倣って行いたる本年の挙もまたこれを責むるを得ざるもの」(『秘書類纂』朝鮮交渉資料)と、「七月二十三日戦争」を認めるのだから閔妃殺害事件も国家が承認するべきだと政府を批判した。結局、日本の司法権は、彼ら閔妃殺害犯たちを誰1人罰することができなかった。開戦理由を見つけることができずに、軍事行動で朝鮮政府を抑えた一八九四年の外交的失敗が、一八九六年にはいっそう大きな失敗となって姿を現わす。事件により日本の影響力は逆になくなり、国王と世子がロシア公使館に逃げ込み、一年間も出てこないという事件(露館播遷)となったのである。
 日本という小国が、大国清国を軍事的に破ったことを、ヨーロッパ諸国は驚きをもって迎え、次いで小国日本が獲得した以上に大きな成果を、弱体化した清国から得ようと動き出した。大きな出費をすることなく、清国の分割という最大の成果を挙げたヨーロッパ諸列強に対し、戦った日本に残されたのは、清国と朝鮮国の恨みと、近代日本の進路が、アジアヘの軍事的侵略としてほぼ固まったことだけだった。一九四五年敗戦に至るまでの日中五十年戦争が幕を開けた。・・・・・・・
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(参考) 朝鮮王宮占領事件が引き起こしたもの
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj080811.html
     歴史を改竄する者
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj080429.html
(文責:HP管理人)

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